パソコンはギンギンの仕上がり。
ノンストレスでサクサク。
体調も完治までもう一歩まで回復。
酸素吸入器と流動食から解放されて、今日、肉なしのカレーライス(喉に負担をかけないよう、野菜はみじん切り)を食べることが出来て、歓喜の涙を流したばかり。
しかし。
ここ数日間・・・
今もだが・・・
心は限りなく「落ちている」。
理由は二つある。
一つは、高校時代に本を通して、人生の師と仰いだ小説家のカート・ヴォネガットが亡くなったこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%88
もう一つは、米バージニア工科大学での銃乱射事件で、私の善良なアメリカの友人の息子さんが犠牲になったこと。
・・・・・・
ヴォネガットの死去に対しては、まるで肉親に死なれたかのように、心にぽっかり穴があいてしまったが、著作を読み返すことですぐ乗り越えることが出来た。
We do
Dooley do, dooley do, dooley do,
What we must,
Muddily must, muddily must, muddily must;
Muddily do,
Muddily do, muddily do, muddily do,
Until we bust,
Bodily bust, bodily bust, bodily bust.
ぼくらはやる
まともにやる、まともにやる、まともにやる
やるべきことを
やりきれない、やりきれない、やりきれない
やらねばならない
ねばならない、ねばならない、ねばならない
やられるまで
からだがやられる、からだがやられる、からだがやられる
ヴォネガットならではの詩が頭に染み渡ることで、私は「猫のゆりかご」(ハヤカワSF文庫)を初めて読んだ時の何ともいえない微笑みを思い出すことが出来た。
臥せっている私が身を起こすと、ヴォネガットが優しく肩に手を置くのを感じ・・・
そして・・・
アメリカの友人からのメールをもう一度読み返し・・・
“My son was shot.” と書かれてあるのを見た。
おれの息子が撃たれた、と。
それから、アメリカはマイケル・ムーアでさえも変えることが出来ないと嘆いていた。
マイケル・ムーア。
そう。
私も好きだ。
好きというより、勇気のある、善良なアメリカ人として敬愛している。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」、「華氏911」は一度は観ておくべき価値がありすぎる。
ムーアの抱いた疑問をアメリカの民は真剣に受け止めなかったのだろうか?
私は不謹慎ながら・・・
今回の乱射事件も、そのうち、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」みたいにドラマ化されて、「記号化」されてしまうだろうと思っている。
なぜなら、多くのアメリカ人はムーアが告発しているように、単純な受け止め方しか出来ないからだ。しかももっと悪いことに、受け止める媒体が生身ではなく、テレビやネットがほとんどを占めているといった具合だ。
ムーアでなくとも、誰もが・・・
ジョージ・オーウェルの全体主義の悪夢を描いた「1984」を連想するだろう。
自由という名の全体主義。
それが今のアメリカ。
もう、アメリカ人は考えることをせずに、ただ、悲鳴をあげることしか出来なくなってしまった。
コロンバインでも。
911でも。
そして今回の乱射事件でも。
ミスター・ヴォネガット、あなたは今のアメリカをどう思われますか?
町田の団地に拳銃を持ってたてこもったチンピラのニュースを見て。
我が国はそれほど銃に対して脅威を感じていないのだということを、今回も思い知らされた。
インタビューに答える住民の恐怖のレベルは、さながら「バカがたてこもってる、よりによってこの町で。迷惑だ」とでも言うような、軽い感じだ。
強力な銃を所有して、家にいくつも鍵をかけるアメリカ人の比ではない。
それはやはり、銃そのものが。
我が国では、非現実そのものだからだ。
精巧な出来のモデルガンはあるが、飛び出すのは火薬音とプラスチックの弾だけ。
ところが。
今回も銃を容易に入手出来たという。
書類は全部揃っていたというが、そういう問題じゃない。
この私も書類を全部揃えて、猟銃を入手したけれども、実際に弾が飛び出る物騒な代物は新潟の山奥の親戚に預けてある。
こんな都会で一体何を撃つってんだ?
コロンバインとヴァージニアの容疑者には、撃つ相手がいたが、もし銃が我が国と同じように非現実そのものなら、殺意への衝動をもっと違う何かに持っていったかもしれない。
それでもアメリカの国民の六割が・・・銃規制が解決につながるとは考えないと。
まあ、メディアの言うことは百パーセント信用出来ないから、私は私の考えを述べるだけだ。
友人はマイケル・ムーアの言うことは正しいと話していた。最初はデブの不愉快なやつと酷評していたが、「華氏911」でムーアを絶賛するようになった。
それがまさか、「ボーリング・フォー・コロンバイン」の中に組み込まれるような、息子さんの失い方をするとは。
心より哀悼の意を。
「韓国人が危険だとは考えちゃいないさ。危険なのは、犯人がアジア系だからといって、アジア系全部を恐怖し、敵意を持つことだ。分かっている。分かっているんだが、おれは当分アジア系をまともに見ることが出来ないよ」
そう書いてきた友人。
人間として、ほんとうに素直な感じ方だ。
ミスター・ヴォネガット、あなたはドレスデンで悲惨な目にあったにも関わらず、連合軍のメインである祖国を恐怖することもなければ、敵意も持たなかった。ただ、まともに見ただけですね?ものすごくまともに、秘められた奥底までも・・・
臥せっている間。
NHKの衛星で、立川談志師匠その人をやっていたので、寝たまま見た。
談志師匠は小さい頃、戦争をいい戦争と教え込まれて育って、後に悪い戦争でしたと言われて、その時以来、物事を素直に受け入れるのをやめたと。
なるほど。
でも、私は談志師匠もまた、まともに見るだけの人だと思っている。
それは、マイケル・ムーアもそうであるように、自分の抱いた疑問そのものを「疑わない」、透き通った視線を持っているということなのだ。
・・・・・・
土曜日に私を見舞った悪友が。
例の乱射事件の容疑者について、アキバ系のガンおたくと違わないよなと言ってきた。
私は「見た目はな」と言った。「やつのグロックはほんとうに人を殺せたが、こちらのグロックはせいぜいケガさせるだけだ」
そして。
一体全体、何をそんなに怒っていたんだろう?
という話になったが・・・
私は勝手な推測、憶測に酔いしれる悪友をまっすぐ見据えたまま、人間の心は真っ暗闇だと考えていた。
その闇は誰にも分からない。
しかし、闇をまともに見ることで、少しは何かが見えてくる。その見方は、すでに先人たちが様々なやり方を提示している。私はそのやり方を何と多く教わったことか。
本を読むことで。
映画「地獄の黙示録」の原作になった、ジョゼフ・コンラッドの「闇の奥」はそのものズバリで、人間の闇について書かれた作品だ。
我が国では、一番闇とまともに向き合った作家というと、まず芥川龍之介が思い出される。
本を読むべきだ、ほんとうに。
銃を手にする代わり、本を手に。
そして・・・
私は本を誰よりも多く読んできた、コロンバインと同じ少年時代と、ヴァージニアと同じ青年時代に。
頭の中で自分自身の闇を撃つ用意が常に出来ていた。
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