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2007年04月13日09:29

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「ローズマリー・ベネイ」 の Benét という奇妙な姓。

                  ▲ナンシー・ハンクス・リンカーン。
                    スティーヴ・ヴィンセント・ベネイ▲
  ▲「わたしが今日何者であろうと、また、将来何者に成ろうとも、
   すべては愛する天使のような母のおかげである。母に神の
   加護を」 というリンカーンのコトバが書かれている。




〓映画を見ているときは、『若き日のリンカーン』 について、こんなに書くことがあるとは思いませんでした。今日も、「リンカーン」 ですよん。



  【 「ローズマリー・ベネイ」 の詩 】

〓映画の冒頭で、ローズマリー・ベネイという米国の女性詩人の詩が引用されます。スクリーン2面にわたって、比較的長い詩が、画面全体に映し出されます。

────────────────────
If Nancy Hanks
Came back as a ghost,
Seeking news
Of what she loved most,
She'd ask first
"Where's my son?
What's happened to Abe?
What's he done?"


ナンシー・ハンクスが、最愛の子の行く末を案じ、
幽霊となって戻ってきたとしたら、
まず、こう尋ねたろう。
「わたしの息子はどこ?
エイブはどうなりましたか?
何をしましたか?」


"Poor little Abe,
Left all alone
Except for Tom,
Who's a rolling stone;
He was only nine
The year I died.
I remember still
How hard he cried."


「かわいそうな小さなエイブ、
風来坊のトムの他には頼るものもなく、
わたしがこの世を去ったとき、たった9歳だった。
エイブがどれほど泣いていたか、
今でも覚えている」


"Scraping along
In a little shack,
With hardly a shirt
To cover his back,
And a prairie wind
To blow him down,
Or pinching times
If he went to town."


「小さな小屋で、食うや食わずの暮らし、
背中の隠れるシャツなど無いに等しく、
吹き飛ばされるほど強いプレーリーの風、
あるいは、町に越していれば、
たびたび貧苦が襲ったろう」


"You wouldn't know
About my son?
Did he grow tall?
Did he have fun?
Did he learn to read?
Did he get to town?
Do you know his name?
Did he get on?"


「わたしの息子についてご存じではありませんか?
息子は背が高くなりましたか?
息子は楽しく遊んだでしょうか?
息子は本を読んで勉強しましたか?
息子は町に出ましたか?
あなたは息子の名をご存じ?
息子は成功したでしょうか?」
────────────────────

〓女性らしい、慈愛に満ちた、美しい詩ですね。
〓『若き日のリンカーン』 というのは、主たるテーマが 「リンカーンの正義」 であるとすれば、副テーマが 「母親」 なんですね。
〓なんでもないシーンなんですが、リンカーンが、サム・ブーン Sam Boone というアライグマの毛皮をかぶった男──ジョン・フォード監督の兄 Francis が演じている──とともに馬で、被告の母親に会いに行く場面があります。
〓道は川沿いを行くんですが、リンカーンは、川をさも愛おしげに眺めています。サムが、「あんたは川ばかり見ているな」 というセリフが入ります。どうやら、リンカーンにとって、川は幼少の記憶につながり、その記憶は母親につながっているようなのです。具体的に、ナンの説明もないのに、

   ふっと、川が母親の隠喩である

ということを、ナットクさせてしまう力が、ジョン・フォードの画にはあります。
〓そのあとに続くシークエンスで、被告の母親を、自分の母親にダブらせるあたりについては、言うにおよばないでしょう。

「ナンシー・ハンクス」 Nancy Hanks というのは、リンカーンの母親の結婚前の名前です。夫のトマス・リンカーン Thomas Lincoln は、詩の中で rolling stone と言われているように、上昇志向がなくウダツのあがらない男だったようです。
〓ナンシーは、1818年 (文政元年)、

   牛乳病 milk sickness

という病気にかかります。これは、「1800年代初頭の米国に特有の病気」 だったらしく、英語版のウィキペディア以外に立項されていません。だいたい、日本人は 「牛乳病」 なんて病名は、聞いたことさえないですね。
〓米国でも、現在では稀だということです。原因は、

   マルバフジバカマ white snakeroot
    Eupatorium rugosum

フォト


ばかりを食べて育った牛の 「乳や肉」 を毎日食べることによって、トレメトール tremetol という毒物の中毒を起こすものです。体の震え、嘔吐、腸の痛みなどが症状として現れます。1800年代初頭の米国では、数千人の人たちが牛乳病で亡くなっています。
〓つまり、米国における、自給自足の貧しい開拓農民のかかる病気だった、ということです。

〓ナンシーは、1818年10月5日、34歳で亡くなりました。詩にもあるとおり、エイブラハム・リンカーンは、当時9歳。彼は、後年、父親を手伝って、母親の棺のための木釘を削ったことをしばしば思い出していた、と言います。
〓何らの葬儀も行わないまま、夫のトマスが、木の茂った丘の頂上まで棺を引きずってゆき、棺はそこに埋められました。

〓映画のラストシーンで、弁護士としての仕事をやり遂げたリンカーンが、母親と慕った依頼人の一家をプレーリーへと見送ります。酔っぱらいながら陪審員をつとめたサム・ブーンが、「帰ろうか」 と誘うと、リンカーンは、「いや、あの丘の頂上まで散歩してくる」 と言うのですね。そこに雷雨が訪れる。きのう掲げた写真のシーンです。



  【 「ローズマリー・ベネイ」 という名前 】

〓ローズマリー・カー・ベネイ Rosemary Carr Benét という詩人については、今日、あまり語られることがないようです。ウィキペディアにも立項されていませんし、日本語で書かれた情報もありません。Google での検索数は 426件です。きわめて少ないですね。彼女が、いつ、どこで生まれたのかさえ、特定できませんでした。ですから、彼女が、なぜ、リンカーンの母親について詩を書いたのか、その理由もわかりませんでした。

〓彼女の夫は、米国ではよく知られた20世紀前半の作家・詩人で、

   Stephen Vincent Benét
    スティーヴン・ヴィンセント・ベネイ

という人物です。彼の兄もまた、著名な作家・詩人・編集者で、

   William Rose Benét
    ウィリアム・ローズ・ベネイ

と言います。つまり、ローズマリー・ベネイの結婚前の名前は、Rosemary Carr ということになるんですね。

〓ところで、アタクシ、ここで、この作家たちの評伝を書こうというわけではありません。

   Benét [ b ı ' n e ı ] [ ビ ' ネイ ] ベネイ

という不思議な姓について書こうと思うんですね。
〓変わっていると思いませんか。この姓を持つ米国人としては、他に、

   Eric Benét
    エリック・ベネイ

がいます。黒人の R&B、ゴスペルシンガーです。Benét は、彼の母方の姓です。

〓この Benét は、世界中のコトバをひととおりカジったヒトならば、

   ケッタイな綴り

だということが即座にわかります。é という文字を使う言語の代表はフランス語ですが、その意図は、

  開音節において、e を [ ]
  ではなく [ e ] と読ませる


というものです。つまり、-net のような 「閉音節」 は、このままで [ - n e ] と読むため、何も記号を付ける必要はないし、「付けたら、むしろ誤り」 なのです。
〓かろうじて可能性が考えられるのが、ハンガリー語、チェコ語、スロヴァキア語などの、「長音の e 」 を表す文字である場合です。ところが、Benét という姓は、これらの国では見つかりません。
〓もう一度、綴りと発音を見てみましょう。

   Benét [ b ı ' n e ı ] [ ビ ' ネイ ] ベネイ

〓アクセントが語末にあり、語末の -t を発音していません。ここから、何がわかるか、というと、

   é という文字を除けば、フランス人の姓である

ということです。
〓以前、ルイジアナやニューオリンズについて書いたように、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=356953888&owner_id=809109
仏領時代、ルイジアナには、フランス人や、ケイジャンを含むフランス移民がたくさん住んでいて、今でも、フランス系米国人は相当な人口を占めています。もちろん、彼らの姓はフランス語で、そのフランス系の移民の姓を採用した、ルイジアナ出身の黒人たちも、フランス語の姓を名乗っています。
〓つまり、おそらく、

   Benét というのは、フランス系の姓

なのです。ならば、Benét という奇妙な綴りは何か? 古い時代のフランス語でも、こんな奇妙な綴りが存在したことはありません。
〓これは、おそらく、英国系の移民に 「ベネット」 ではない、という 「注意をうながすための綴り」 ではないでしょうか。つまり、-ét という奇妙な綴りを採用することで、

   アクセントが語末にあり、
   -t を読まない


ということを覚えてもらうための 「インデックス」 みたいなものではないか。

〓フランス人の姓には、案にたがわず、

   Benet [ ブ ' ネ ] ブネ

という姓があります。これは、フランス人によく見られる男子名、

   Benoît [ ブノ ' ワ ] ブノワ

のバリアントで、ラテン語の

   Benedictus [ ベネ ' ディクトゥス ]
     bene- <副詞> よく、正しく (well)
     dictus <過去分詞> 話された、呼ばれた、語られた(者)
       → 「祝福されたる者」

がフランス語流に擦り切れた語形です。

〓Benét なんて、いったい 「ベネイ家」 の誰が発明した綴りなのか、なかなか愉快ではないですか。
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