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2007年02月08日23:36

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同性愛について。��

「真の罪人は聖人と同じように、大部分の人間がそこに安住している普通の境涯を飛び越え、別の領分へ入っていこうとするごく小数の人間なのである。そして聖人と真の罪人との違いは、聖人がアダムとイヴ以前にあった人間の法悦を取り戻そうと努力するのに対し、罪人は天使だけのものである法悦と知識を自分のものにしようと努力するところにある。こうした越権行為は例えて言えば、犬や猫が突然口をきいたり、バラの花が歌いはじめたりするようなもので、同様の戦慄を我々に感じさせずにはいないだろう」

アーサー・マッケン「白い人々」1899年



女性とのセックスはもう経験していたが、あれが世間一般でいう、普通の女性との初体験ではないことは、子供心に理解していた。相手は従姉で、従姉の抱え持つ、突き抜けるような衝動と絶望、昂揚を一身に受け止め、受け入れ、そして共鳴を果たした「私の初体験」だった。

中学生になったばかりの私は、我ながら思春期の男の子らしくなかった。
例えば。
家庭教師の先生が、大学の漫画研究会の同人誌にて、「六神合体ゴッドマーズ」の兄弟愛を近親相姦のホモに置き換えて、楽しがって描いていたのを見せびらかしても、私の反応は冷笑そのものだった。
先生にとってはものすごくショックだったらしい。
期待していたのは、ウブな男の子らしく、ホモセクシャルという禁断の分野がこの世にあることの驚きぶりだったのだそうだが、リリアーナ・カヴァーニ監督の映画「愛の嵐」ですでに知っていた。
「愛の嵐」の背徳的雰囲気は、全く、小学生の私を魅了して、個人的にナチズムへ憧れたほどだ。
しかし、憧れたのは、ファシズムとしてのナチズムではなく、あくまでも耽美主義としてのナチズムだった。だから、当時の私が選んだナチズム入門書は、アドルフ・ヨーゼフ・ランツの「神聖動物学」であった。
それ自体がナチズムというわけではないのだが、耽美主義の原動力になったという点で、異様なエネルギーが詰まった本に私は陶酔した。
思えば、それを皮切りに、ありとあらゆるオカルティズム、神秘主義の著書を読み漁って、家庭教師から一般的な授業を受けると、逆の立場で耽美主義、神秘主義、悪魔主義について授業を行った。
先生の受け持った科目は、当時は中学からスタートした英語だったので、いまだ我が国で翻訳されていない原書を読みたくてたまらなかった私にとっては、願ったりかなったりの授業で、ほんとうにガリ勉して、読解力を身につけまくった。
英訳版のドイツものから、フランスものに移行した際に、耽美主義に凝り固まった私を打ちのめしたのが、ジョルジュ・バタイユだった。
未熟な英語力では満足のいく読書が出来なかったので、十四回目の私の誕生日に、生田耕作訳、澁澤龍彦訳の「エロティシズム」、「眼球譚」をプレゼントに買ってもらい、それこそ夜も寝ずに読みふけった。
バタイユはナチズムで舞い上がった私をほんとうに地獄の底まで引き摺り下ろして、「人間的」に目覚めさせた。


人間の精神は、最も驚くべき禁止命令にさらされている。
たえず自分自身を怖れている。
自分自身のエロティックな運動によって脅されているのである。
聖女は怖ろしげに遊蕩児から顔をそむける。彼女は遊蕩児の恥ずべき情念と、彼女自身の情念とが同一のものであることを知らないのである。
(略)
・・・しかしながら、人間は自分を脅すものを乗り越えることができるのであり、これを正面から見据えることができるのである。

ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」



家庭教師の先生は、バタイユの著作をちらと読んだだけで、すっかり怖気ついてしまった。特に「眼球譚」のシモーヌの衝動ぶりに、ショックを受けたらしい。
私にホモセクシャルの華麗な世界を紹介しようとした先生は、所詮、女性としての枠を乗り越えることが出来なかったゆえに、私の性を超越して、快楽を追い求めようとする貪欲さに、完全に萎縮してしまった。
思い出だけを残して、先生は同人漫画の内側に引き篭もってしまったが、私は英語力を授けてくれたことに感謝の念をあらわし、日々をバタイユとともに過ごした。

自分自身を知るためには、徹底的に自分自身をメチャクチャに破壊して、そこから再構築させること。

そういう姿勢で、読書を続けていた中で、私をまた打ちのめす作家が現れた。
宮谷一彦。
漫画家で、今ではゴシック漫画の最高峰「孔雀風琴」で知られるカルト的な存在である。
「孔雀風琴」も匂い立つような同性愛の世界なのだが、宮谷漫画との最初の出会いは、画像に引用した、「緑色なる花弁」であった。
せむしの男の子と、美少年が、「お金持ちのお坊ちゃん」と「下男」の身分を交換しながら、お互いを求め合いつつ、二人だけの秘密を共有するという内容で、その日本特有の土着的なドロドロしたもので味付けした、オスカー・ワイルド的なホモセクシャルは、ほんとうに私を、またもやバタイユで舞い上がっていたのを、さらに地べたに引き摺り下ろした。

・・・・・・

浮いたり、沈んだりしながら、実に大量の読書体験で、快楽を貪りまくった中学時代だった。
その時、私の頭の中、内部世界には、ひとつの巨大なギリシャ神殿がそびえたっていて(映画「アルゴ探検隊の冒険」に出たような!)、神殿内では、三島由紀夫とバタイユが談笑し、ナチスの制帽を被ったシャーロット・ランプリングが妖艶な踊りを見せ、江戸川乱歩と横溝正史がそれぞれ、宮谷漫画のせむしの男の子と美少年の彫像を彫っていた。
その中で、幼子としてぺたぺたとうろつきながら、夢の中で、ほんとうの同性愛とは、男も女もなく、衝動がシンクロしあうことなのだと叫びまわっていた。
それで、リアルで交わった従姉がほんとうに望んだことが何だったのか、理解した。
彼女は、ただ、自分が何者なのかを知りたかっただけなのだ。理解した瞬間、私は従姉をとても愛しく感じた。

・・・・・・

雲の彼方の快楽に追いついた私は、実に晴々とした気分で、中学の卒業式の帰り道で、ヘンリー・ミラーの一文を繰り返し、繰り返し暗唱した。

「もしそれで人間を解放することが出来るものならば、わたしは獣姦でも、公衆の面前での交接でも、近親相姦でさえも、すべて奨励していいと思う。殺人をも含めて、それ自体が間違っているとか、悪いとかいうものは何もないので、間違っているのは・・・自己を表現することを怖れることなのだ」


��、完結編に続く。
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