将棋の話である。
第75期将棋王座戦(日経新聞)一次予選、森下卓九段対川村悠人四段の対局を棋譜で見た。森下九段は60歳。棋戦優勝6回、かつては名人戦にも挑戦した実力者で、通算1010勝783敗。対する川村四段は26歳。今年4月に四段になったばかりで、ここまで10勝2敗という新鋭である。
森下九段は、谷川浩司九段(64歳)と羽生善治九段(55歳)の間の世代になる。花村元司九段の弟子で、正統派の棋士。手厚い将棋を得意とし、A級に在籍してタイトルにも挑戦した。森下九段が活躍していた頃をよく知っているだけに、現在C級2組にいるというのが、どうにも寂しく感じられる。
この対局は森下九段が後手番。得意の矢倉に組み、じりじりと押していた。ところが88手目の1五銀が落手となって形勢が逆転し、99手で森下九段が投了した。
それにしても、川村四段の戦い方が印象に残った。
先手番だから、自分の得意な戦型を選ぶこともできたはずなのに、あえて森下九段のお家芸ともいえる矢倉を選んでいる。それも、奇襲を仕掛けて一瞬のけたぐりで勝ったわけではない。正面から矢倉で戦い、じりじりと指し進め、最後は森下九段のミスを逃さず勝ち切った。
棋譜を並べていると、川村四段が最初から森下九段をそれほど恐れていないように感じる。もちろん本人がどう考えていたかは分からない。しかし、見ている側には、「いずれどこかで折れるだろう」とでも思っているような、若い棋士特有の落ち着きが感じられる。
それが単なる世代交代という話なら、「ベテランが若手に負けた」で終わる。しかし、将棋の世界では、それだけではないらしい。
『将棋世界』9月号には、渡辺明九段と佐藤天彦九段のAIをめぐる対談が載っている。その中で渡辺九段は、現在の四段、つまりC級2組の棋士のレベルは、昔のA級に匹敵するという話を、データを示しながらしている。
そう考えると、この対局の結果も納得できる。森下九段が単純に弱くなったというだけではない。若い棋士たちの棋力そのものが、昔とは違うところまで引き上げられているのだろう。
それでも、面白くない。森下九段の全盛期を知っているからである。A級で戦い、名人戦にも挑戦した棋士が、今は若い四段に、それも自分の得意とする矢倉で敗れる。しかも相手は、プロになってまだ四カ月ほどの26歳である。
将棋を見ながら、ふと自分のことを考えた。71歳、歌の世界では、もう超ベテランである。アマチュアだから、輝かしい実績があるわけではない。ただ歌い続けて56年になる。
さて、自分はあと何年歌えるのだろう。声はいつまで持つのか。若い人たちと一緒に歌っていて、いつまで同じ土俵に立っていられるのか。将棋のように勝ち負けが数字ではっきり出るわけではない。それでも、歌っている本人には、自分の衰えが分かる瞬間がある。
森下九段は99手で投了した。さて、自分は何手目まで歌えるのだろう。「老兵は死なず、ただ去り行くのみ」という言葉もある。だが、少なくとも今のところは、まだ投了するつもりはない。
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