録音というものは、便利であると同時に、どこか残酷でもある。
火曜日の合唱団練習を録音し、初めてグループLINEに流した。水曜日(OEK富山)は毎回バスの先輩が録音を流してくれる。木曜日のモーツァルト《レクイエム》、土曜日のバッハと、自分が関わる練習は自分で録音して共有している。目的は明確だ。指導者の指示の確認と復習である。
以前別の合唱団では、指揮者の注意を当番制で活字化して配信していた。「何小節はこう」「子音を立てて」など、丁寧に書き起こした。しかし、労力のわりに読まれている実感は薄く、やがて虚しさが残った。その後は録画配信に変わり、カメラは指揮者の顔を正面から映すようになった。団員がその場で見ているものを再現しようとしたのだろう。だが自分は、そこに違和感を覚えた。音楽はまず音で理解されるべきものだ。画面越しの表情を追体験しても、音楽的な核心には届かない。
結局、いまのところ最も実用的なのは録音である。それも指揮者の近くに置く。指揮者の耳にどう響いているのか、注意がどのような音の結果として出ているのかがわかる。自分のそばにマイクを置いて自分の声だけを確認しても、合唱では意味が薄い。合唱は個人競技ではないからだ。
もっとも、録音にも限界がある。マイクに入りやすい声と、そうでない声がある。「こんなハーモニーだったか」と首をかしげることも少なくない。人間の耳は空間の広がりや倍音の混ざりを立体的に捉えるが、ICレコーダー(2万円以下)や今自分が使っている録音機(4万円)程度の機材ではそれを完全に再現できない。録音はあくまで一つの視点であって、真実そのものではない。
再生環境も大きい。MP3を小さなイヤホンやヘッドホンで聴けば貧弱に感じるが、エンジンをかけない車内でスピーカーから流すと、不思議とまとまって聞こえる。音は、再生される空間に左右される。
日曜日の門下生試演会では、ビデオカメラ、録音機、iPadの三台で記録を残した。兄弟子が彼自身の歌を聴いて反省の弁を書いていたが、自分は「きちんと聞こえていますよ」と伝えた。ホールいっぱいに広がる響きや、その場の緊張感は、小さな機械には収まりきらない。録音で不足して聞こえるからといって、実演まで不足しているとは限らない。
音楽は空間と時間の芸術である。録音はその痕跡にすぎない。
それでも自分は録音を続けるだろう。録音は裁判官ではないが、検証の道具にはなる。耳の記憶を補助し、思い込みを修正してくれる。
今週は土曜日のピアノ合わせから始まり、日・月・火・水、そして木・金・土と歌が続く。今日はモーツァルト《レクイエム》。のどの調子は悪くない。体力が続くことと、音楽が深まることは別である。そのことを忘れぬためにも、また録音を聴き返す。
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