スケートを「水すましのようで、見ていてつまらん」と田中長野県知事が言った。長野オリンピックの時だ。抗議を受けて謝罪したが、あれは本音がうっかりマイクを通っただけではないかと思うが笑った。
冬の競技は、まず開催地が限られる。氷と雪がなければ始まらない。人工的に作れると言っても、巨大な設備と維持費が前提だ。映画『クール・ランニング』のような物語は感動として消費されるが、例外だからこそ物語になる。現実は、寒さと資金を両方持つ地域だけの祭典である。
個人競技も同じだ。スキー板、スケート靴、専用ウェア、リンク代、遠征費。冬はまず「環境を買う」ことから始まる。夏の競技にも金はかかるが、走るだけなら靴一足で足りる。冬は氷そのものが商品だ。参加のハードルは美談よりずっと高い。
団体競技ならまだ分かるかとアイスホッケーを見るが、速すぎて何が起きているのか分からない。防具に包まれた選手の顔は見えず、表情も読めない。ガンダム同士の衝突を見ているようなものだ。高度な戦術があるのだろうが、観客に伝わらなければ、それは内輪の完成度にすぎない。
それでも大会が始まれば、テレビは連日「感動」を量産し、新聞のスポーツ欄は氷雪一色になる。メダルの数が国威の指標のように数えられ、スポンサーのロゴは画面の隅々まで貼り付く。スポーツというより巨大イベント産業だ。祝祭とビジネスが、分かちがたく絡み合っている。
熱狂する人々を否定するつもりはない。好きな人が盛り上がるのは自由だ。ただ、その熱に同調できない者もいる、というだけの話である。
はよ、終わらんかな。
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