教師をしていると、実にさまざまな国や地域にルーツをもつ生徒と出会う。韓国、朝鮮、中国、日系ブラジル、ペルー……少し思い返しただけでも、これだけの名前が浮かぶ。
社会科の授業では、国や歴史、文化、国際関係など、扱うテーマは多岐にわたる。だからこそ、言葉の選び方には常に気を遣ってきた。どんな説明をし、どんな言葉を使うかは、そのまま子どもたちの「ものの見方」につながるからだ。
だが、問題は必ずしも子どもたち自身にあるとは限らない。以前、在日韓国人の生徒に対する集団いじめの話と、ネット上で中国籍の生徒の実名を書き込んだ生徒の話を書いた。今回は後者について、もう一度触れる。自分が学年主任をしていた頃のことである。
保護者との面談で、こんなやり取りがあった。
「私は中国が嫌いなんです」
「何か、そういう経験があったのでしょうか」
「別にありません。知り合う機会もないので。ただ嫌いなんです」
本人は出会うことがなくても、子どもは学校で日常的に一緒に過ごしている。頭が悪い、想像力がないと言ってしまえばそれまでだが、この人はきっと死ぬまでこうした感情を抱え続けるのだろう、と感じた。
偏見は、必ずしも実体験から生まれるわけではない。むしろ、何も知らないまま、想像しようとしないところから、静かに固まっていく。そして、その空気は、言葉や態度を通して、確実に子どもに伝わる。
さて、現職であれ、退職後であれ、かつて教師だった人間が発する言葉である。
――それって、子どもの前で言えるのだろうか。
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