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2024年05月26日02:17

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幕末史の整理


…我々は令和に生きる現代人であるから、歴史を振り返るとき「IF」を簡単に論じてしまうが、当時を生きる当事者が、それをどう感じた上での行動だったのか、という考察がしばしば抜けがちである。
ただ、結果をもとに順を追って推察するしか正しく遡ることは出来ない。

 例えば、戦国時代の「桶狭間の戦い」が本当に大逆転劇だったのか、
その信長は鬼か悪魔か天才か、はたまた狂人だったのか。
彼が本能寺の変で死んだのは必然かそれとも巡り合せか、と考えるとき、
やはり当時の情勢などを踏まえて考察すると思う。

 日本史の中で常に「正義」の位置付けを左右するのが「天皇」の存在で
これを脅かそうとすると強い反動が起きる。足利義満がそれであり、
信長もそうだったのではないか。或いは平清盛や源頼朝ですら、
武士政権を樹立するにあたり、権威と武力の両立に反動があって
彼らの直接的な覇権が短命に終わってしまったのではないか。
そういう推察も成り立つのだが、証明するものを持たない。
古代や中世代は「正史」を後世に遺す権利と義務を持つのは、
識字率も著しく低い上に当代の為政者かその意を汲む者に限られるわけだから、
その内容は完全には信用出来ない。
しかしながらも第一級の史料は、
その時の為政者の都合で編纂されたものが殆どで、
為政者にとっての不都合が記録されない事は前提として認識しておく必要がある。
徳川幕府の時代に「家康が地位を悪用して豊臣家から政権を奪った」とはストレートには表せない、ということだ。

 一方で、近現代史に於いては資料乱立の様相があり、
江戸以降の推量は逆に極めて難しくなっている。
否、推量は容易だが正しく遡ることが難しいと言えるだろうか。
真贋入り乱れたあらゆる史料の中から
真に信用に足るものだけを選び抜いて根拠にするのは
これを専門とする学者先生の判断に頼る事になり、
そこから判断する事が「至難の業」だということだ。


●幕末期
 さて、一般には1853年の「ペリー来航」以降の大政奉還までを指すことが多い。
 が、この時代を決定付けたのは1840年のアヘン戦争での清の大敗と不平等条約締結、更にはペリーより7年も前に江戸湾に来航したビッドル(アメリカ東インド艦隊の司令官)が来訪した1846年から考えた方が良さそうではないだろうか。
 ピッドルは追い返したが、必ず再度来訪する米国の使いには
「何らかの回答をしなければならない」事は、少なくとも幕府の担当者にはこの時点で理解されていた筈であると指摘したいのである。

 既に産業革命により蒸気機関を手にした欧米にとって、
日本は征服すべき相手ではなく寄港地として通商相手にしたかった筈で、
南北対立でアジア進出に後れを取っていた米国は、
どれだけの価値があるのかどうか分からない日本相手に戦争をするよりは
いち早く通商を進めたかったのである。

 1846年のピッドル来訪の時は米国は友好的に条約締結を望んでいたのである。
その証拠に彼らは現に軍艦で来航したにも関わらず
大砲は一発も放たず、穏便に江戸湾に入り、浦賀に寄港し幕府の通史と会談して、
言われるがまま日本を後にしているのだから。

 ところが、家康の定めた「祖法」では鎖国政策を採るので、
外国との交渉は長崎の出島に一本化する、などと幕府首脳は言い逃れ、
ビッドルを手ぶらで追い返してしまうのである。
 既にアヘン戦争で欧米には敵わない事は
唯一の通商相手のオランダなどからの情報で伝えられており、
中国大陸進出に遅れを取るアメリカとは友好的に迫る内に手を結ぶべき、
と散々指摘されていたにも関わらず、このチャンスを逃してしまうという
愚挙を犯してしまうのである。
 その結果として、国民には或いは政には遠い市民や農民にはこれは知らされず、
ただ追い返した事実だけがあらゆる思い違いを生むのである。
「神国日本には夷狄は立ち入らせぬ」などと妄想を抱く契機を与えてしまうのだ。

一方で、最悪な事に欧米にはこう映るのである。
「アノクニハ、シタテニ出タラツケアガル!」
と言ったかどうかは知らないが、
7年後の1853年に訪れたペリーは、
きっちり艦砲外交とも呼ばれる威圧的な態度で開国を迫ったのである。

確かに一国の首都に軍艦が砲弾を撃ち込めば
騒動になって当然である。対抗するか従うか、国を挙げての議論になるのである。
既にこの時には国内は「開国か、攘夷か」に議論が分かれている。
それはアロー戦争で英国に清朝がなすすべもなく敗退し
屈辱的な講和をして不平等条約を結んだ上で
列強各国からも蹂躙されるという姿を目の当たりにした上で
米国からピッドルが来ていたからである。
そして、そのピッドルを追い返したという事の意味は
「次に来たら、ただでは済まされない」
と分別のあるものには分かっていたからである。

この時点では我が国には自前の蒸気船の製造能力はなく、
長崎を出入りする外国商人を通じて購入するしか方法はないのだが、
およそ軍備と呼べるものが「敵国」から手に入る筈がない。
つまり、国内の技術革新を図る必要があるのである。
事実、密かに英国と交易をしていた薩摩藩には
幕府を上回る技術が既にあったと言われている、そんな状況である。

この事態を受け、老中筆頭の福山城主の阿部正弘が
この対処を諮問する事で一気に国内の議論が盛んになる。
恐らくはそれまではお目見えの近侍にしか意見を問わなかった幕府の高官が、
諸藩の世襲藩主やその配下に広く意見を求めるのだ、
国内はおろか、各藩の中で意見が紛糾するのは必至であった。
これが「幕末」の中心軸である。

「開国」か「鎖国」といっても制限的外交はあるが「現状維持」か
この両論で国内は分かれていくのである。
「現状維持」には迫り来る欧米列国を撃退する必要があり、
過激な思想の「攘夷」と幕府寄りの反論と対抗する「尊王」が合流し
「尊皇攘夷」が拮抗するのである。

 結局、幕府はペリーらに押し切られる形で条約を結ぶ事になり、
“合議の上で、対米開国”という形になった。
しかし、事態はそれでは収まらない。
同じように欧米列強が迫り幕府はこれらを拒むことが出来なかった。

そして“合議”で決めたにも関わらず
反対していた派閥は納得していなかった。
これを煽ったのは「異国嫌い」の孝徳天皇である。

この一連の騒動に心労が祟ったのか、
老中・阿部正弘は在任中に急死し、
このバトンを受けたのが井伊直弼大老である。
幕府は開国に舵を切り、来る明治時代を待たずして
徳川幕府主導で「富国強兵」を目指そうとしていたのである。
ただ、ピッドルの対応を誤った事でペリーの艦砲外交を受け、
結果的に不平等条約を結ばされることになったのが
大きな不幸であり、幕府の墓穴を掘ることになった。

 本来なら天皇から国事のほぼ全てを付託された幕府や将軍の意向は
即ち天皇も追認する事項であり。諸藩が反抗しようはずもないのだ。
ところがこの頃から藩論なる各藩の考え方をまとめる風潮があり、
学問に勤しむ余り、上意下達を表向き守りながらも
各藩の姿勢の違いが浮き彫りになりつつあったのだ。
「攘夷」か「開国」かは「開国」で動き出したものの、
孝徳天皇が「攘夷」を唱え続けたことで
これに伴って「勤皇」か「佐幕」かに意見は分かれていくのである。

頑なに「勤皇」、頑なに「攘夷」を唱える藩論でまとまりつつあったのが
下関での通商で経済的実力が高まっていた外様大名の藩の長州藩である。
後ろ盾には公家の三条実美を迎え、倒幕すら目指していたのである。
幕府の思惑とは裏腹に国内には「攘夷」の機運が高まる一方で、
これにより実権掌握を目論む朝廷の動きが加わり
ずっと存在しながら燻り続けていた勤王論が事を加速させる。

薩摩藩は勤皇思想に留まらず「公武合体論」を掲げており、
朝廷とも幕府とも向き合う態勢を採っていた。
将軍に姫を出すなど外様大名とは思えない関係性は異色で
一方で関ケ原で西軍の主力として戦ったツケで
幕政には長く苦しめられてきた感情も燻っていた。
琉球を実質支配下に置き、ここを経由して清国やアジア諸国と
中継貿易を実現した事で幕末期の大名では最も力のある藩である。
公武合体の行く末には「雄藩連合」の成立を目指すというのが
幕末当初の薩摩藩の立ち位置となっていた。

一方で幕府側も事態に手を拱いていたわけではない。
そもそもの徳川の幕藩体制は
将軍家や親藩と譜代大名の強力な連合体で政治を行う仕組みであった。
城を無断で改築したり、藩を跨いだ婚姻を幕府の許可無しに行うだけで
“御家取潰し”的な厳罰を下す事などして、
幕府以外の武力をトコトン削いで国内の武力低下による
平和維持を基本スタンスとしていたのである。
この仕組みの欠点は外様の有力大名の国力が低下する事と、
国外勢力に対抗しうる武力の革新が遅れる事である。

そして、そこに「黒船」が押し寄せてきた事で
徳川260年の幕藩体制のツケを払うべく「開国」に踏み切ったのが
井伊大老だったというわけである。
安政の大獄、と呼ばれる弾圧が彼の手によって行われ、
諸外国を受け入れるには幕府を中心とした挙国一致が図られたのである。
しかし、この動きに反動があり、桜田門外の変で
過激な攘夷派と化したのが水戸藩や薩摩藩の脱藩浪士に
井伊大老は暗殺されてしまうのだ。

軟着陸しつつあった「幕府主導の挙国一致での開国」路線は
勢いを失い、再び「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れるのである。

幕府は再び「尊王攘夷」を抑え込む必要が出てくる。
この時、将軍継嗣問題も相まって、幕府内部も対立が生じるのである。

将軍の継承システムも家康が講じた、徳川独裁体制強化策が
顔を見せるのである。
有名な話だが、徳川家は将軍家のほかに「御三家」として
将軍家を補佐する存在がある。紀伊徳川家、水戸徳川家、尾張徳川家である。
実際には第七代将軍家継は五歳で就任し、僅か三年で死んでしまう。
この時、「家康を始まりとする将軍家」は断絶し、
紀伊徳川家から迎えた八代将軍・吉宗を祖とする新しい将軍家が
始まるのである。
結局、水戸徳川家からも、尾張徳川家からも将軍を迎える事は無かったのだが、
この第八代の将軍の座を争った紀伊徳川家と尾張徳川家の間には
激しい対立があり、尾張から将軍を迎える事が無いように、
新将軍家の御三家である「御三卿」を打ち立てるのである。
これによって、水戸徳川家と尾張徳川家からの将軍擁立は
ノーチャンスとなったのである。
御三卿は清水家、田安家、一橋家の三家があったが、
但しこれらが果たした役割は、断絶しそうな各藩の後継者に
その子弟を送り込む事が殆どであった。
世嗣が夭折した第十代・家治の元に一橋家から
第十一代将軍・家斉が送り込まれ、新・新将軍家となったのと
幕末のキーパーソンの一人である最後の将軍・慶喜は
やはり一橋家から送り込まれているのである。
興味深いのは由伸は断絶しかけていた一橋家に養子入りした
水戸徳川家からの養子だったという点である。

 「勤王」すなわち尊王とは古い中国の思想で、
王すなわち諸侯のリーダーを中心にまとまるという意味が込められていた。
それを「尊皇」に置き換えた事でおかしな事になる。
諸侯のリーダー、だったら「藩主」か或いは「将軍」が務めている筈だ。
尊皇派はそれに忠誠を誓えば成立していたのに、
「王」と「皇」を置き換える事で
650年間もの長きにわたり国政に手出し出来なかった朝廷を
今更担ぐ事が“正義”というとんでもない発想が出来てしまうのである。
その裏には、長年の幕府の圧政や将軍家への反発として、
この「尊皇攘夷」に乗じて巻き返そうという、
便乗的な発想が加わったせいであるとみることも出来る。

この水戸家は前出の桜田門外の変で
脱藩浪士が大老・井伊直弼を暗殺したように
反論はゴリゴリの尊王攘夷である。
徳川家が尊王攘夷、の違和感を禁じ得ないところだが
水戸家は家康が用意した治安維持装置の一つで、
設立当初から勤皇家として徳川家と朝廷が対立しないように
朝廷寄りに立ち位置を定めて藩の役割を定めていたのである。
その水戸家生まれの慶喜が、将軍職を務めるわけであるから
皮肉が過ぎると思うのは僕だけではないだろう。
勤皇家のスタンスは攘夷である。
ところが攘夷派が慶喜率いる幕府に弓を引くわけだから
皮肉に皮肉が重なっているのである。

幕末期の政争の中心地は江戸ではなく京都である。
その京都の治安維持は会津藩など京都守護職を務める幕臣が行っていた。
各藩の藩邸には続々と重臣が詰め、
帝=天皇と朝廷は幕府が守っている状態である。
公武合体論の素地は既に出来上がっており、
即ち「倒幕」とはならなかった筈である。
しかし、この時の攘夷派の行動には「倒幕」が視野に入っているのである。

 そこには「黒船ショック」による影響が大きいのである。
外圧に対抗するには、幕府自身が矢面に立つべきであり
幕府にもその自覚はあった筈である。
ところが、悩ましい事に肝心の実力すなわち武力が
欧米列強に遠く及ばないという事実も把握していた。
大砲に鉄砲で、鉄砲に刀や槍で応戦しても勝てないのである。

ミリタリーバランス的な皮肉もここにはあった。
長年にわたる鎖国政策が成立したのは、
周囲を海に囲まれた島国だったからである。
帆船程度の外洋航行能力では戦争をするだけの軍備を
海外から持ち込めないので、
朝鮮半島辺りだけが日本国外との接点だった時代が長く続いていたのだが、
産業革命が起き、蒸気機関が発明されると
長距離砲を搭載した外洋航行能力の高い蒸気船が
欧米から渡航可能となったのである。
「黒船ショック」とは、それまで我が国を守っていた海が
どこからでも侵入可能な解き放たれた門に取って代わったことを意味していた。

島国の日本にとって制海権は命綱であり、
仮に陸上兵力で戦おうにも長距離火砲の研究は不十分で、
既に武力で対抗することは不可能である事は、
数少ない通商相手のオランダや朝鮮(清朝)から
十二分に知らされていたのである。
だから、幕府は多少の悪足掻きはしたものの、
最終結論としては開国に至ったのであり、
不平等条約と知りながら通商協定を結ばざるを得なかったのである。

既に一部の幕臣は、国内で争いをする余地もなく
挙国一致で富国強兵に努めないと「清朝の二の舞」という危機感を
強く抱いており、改革しか道が無い事は明々白々の状態であった。
それが「幕末」のシチュエーションだったのである。

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