(一) 1870年初頭教育法
1870年8月9日、グラッドストーン自由党内閣のもとで初等教育法(フォスター法)が成立しました。それは1839年以降展開されてきた一連のイギリス公教育政策の集大成であると同時に、以後の公教育法制の出発点であるともされる画期的なものでありました。従来ずっと宗教団体等の民間有志の手に委ねられてきたイギリスの初等教育は、ここに国民教育制度としての確立の第一歩をふみだしたのです。
その要点は次のようなものでした。
(1)全国を学区(school distriction)に区分し、各学区に住民から選挙された委員をもって構成する学務委員会(school boards)をおく。
(2)六ケ月間の猶予期間をおいて、その間に各宗派はどこの学区にも自派の小学校を設立できることとし、その学校に対して政府補助金を交付する。
(3)猶予期間内に宗派の学校が設立されなかった学区には、学務委員会が公立学校(boad schools)を設立してその空隙を埋めることとし、その経費は地方税によってまかなうこととする。
(4)学務委員会は五歳から十三歳の子供の就学を強制することができる。
しかしまた同時にこのフォスター法は、急進主義者や世俗主義者および非国教徒などで構成される「バーミンガム国民教育連盟」(National Education League)により「妥協の産物」だとして批判されたように、(1)必要な場合には学務委員会による公立学校の設置を認めながらも、他方において、有志立学校の存続を認めて二元支配(dual system)の学校制度を作り出し、(2)公立学校では特定の宗派に固有な宗教教授はおこなわない(クーパー・テンプル条項)が、それへの出席を随意とする(良心条項)と宗教教授に関しても折衷的な規定を設けるになど問題を残しました。
(二) フォスター法に対するグリーンの見解
これらの諸点をさらに敷衍しつつグリーンは、フォスター法がもたらした結果について具体的に評価し現状改善の具体的方策を提案していきます。いわく、農民の課税に対する恐怖感や地主の選挙による自治への嫌悪感が強く残る農村地域では学務委員会はほとんど設置されず、また設置されたところでもその権限は有志立学校には及ばないこととされたので、宗派による教育支配を許して非国教徒などに対する不公正を温存させました。確かに、必要な学校施設を早く安くととのえるagencyとしてはフォスター法はいたるところで成功しました。学校数は1870年以来倍増してほぼ需要にみあうものとなりました。しかし子供を就学させるagencyとしては、就学を強制できる権限をもつ学務委員会がほとんど設置されなかった農村地域では失敗しました。こういうことで、学校は設立されたけれども子供の就学状況は満足すべきものではありませんでした。また就学状況が比較的よかったところでも、そこでの教育水準は、学校規模が小さく教師不足していたことから、十分なものでは決してありませんでした。
このような事態はフォスター法が就学強制を徹底しなかった(学務委員会の設置されないところでは実質上就学強制はなかった)ことから生じたものであり、その欠陥を補なうために1876年のサンドン法が制定されたのです。それは、父兄に子弟の教育義務を負わしめ、十歳以下の児童の雇用を禁止すること、十歳から十四歳の児童に一定日数の学校出席を義務つづけそれを雇用の前提条件とみなすこと、などを規定していました。そして学務委員会の設置されていない学校にには就学督励委員会を設けて就学強制の権限を与えました。これにより就学率は高まることでしょう。しかしサンドン法は別に同様の目的をもつ機構を新たに存立させることにより、すでに存在している学務委員会を孤立させることになりました。これは正しい方策ではありません。現在のパリッシュを単位とする学務委員会にかえてもっと広いユニオンを単位とする学務委員会をあらゆる学区に設置し、それに就学強制のみならず教授組織一般をも含むよりいっそうの機能と権限を与えて強化拡充すべきであります。というのは、学校に対する国庫補助あるいは学校の教育水準等に関する事柄において、国教徒と非国教徒の双方に対して公正を保つことができるのは、この学務委員会の活動を通してのみだからなのです。強化拡充された学務委員会のもとでは、学校の規模を拡張して、それぞれの教育水準に従って子供をグループ分けし各グループごとに別々の教師を割り当てることもできますし、学区内の学校間で相互協力体制をとることもできます。また質量両面における教師の拡充や、さらには現職教師の研修も可能となるでしょう。
「概して1870年法の誤ちはcommissionのそれというよりも怠慢(ommission)の誤ちでありました。それは就学強制の権限をもった学務委員会を町以外の農村地域にも実質的に拡めることを怠り、すでに存在する有志立学校の宗派主義を制限することを怠り、教員養成カレッジを宗派主義のもとにとどめた」のであって、こうした誤ちに由来する現状の改革のためにはまず学務委員会を強化拡充して、学区内のあらゆる学校をその監督下におくことが必要でります。
『二つの講演』の後半部分(��)において展開された、フォスター法に対するグリーンの見解(批判と現状改善のための提案)の大要はほぼ以上のようなものですが、以下に引用する講演の終わりの一節は、グリーン自身によるその要約であるとともに彼の国民教育観を端的に示すものといえるでしょう。いわく、
「国教派と非国教派との間で論争中の諸問題は、ある人々にとってはたいして重要でないように思われるかもしれない。が、祖国の将来を考えるあらゆる人々、ロシアの皇帝をやじって攻撃するよりも高次の愛国心を抱くすべての人々にとって、次代の子供たちがどのようなたぐいの精神をもって社会にはばたいていくかは最高度の関心事でなければならない。神のもとにおいて、われわれが子供たちを健康で賢く徳ある独立した成人になすために主として依拠すべきものは、良き書物と自然の法則についての知識である。だがほとんどたいていの場合、われわれは依然として、子供たちに、母国語で書かれた最善の書物を自由に読み最も基礎的な科学的真理を理解するといった、初歩的な知識を得させることなくかれらを学校から送りだしている。われわれの学校が将来より良き結果をもたらしうるよう配慮することは、改革派政治家の第一の任務でなければならない。われわれはすでに学校施設を準備した。そして急速にそこへ子供たちを収容しつつある。工場はそこにあり原料は急速に工場へ運びこまれている。だができあがった製品はあるべきようには仕上げられていない。その改善は、時の流れと個々人の努力そしてその問題に関する公けの関心を集中することによるところきわめて大であると思う。近年この問題に対して向けられた知性ある公共精神(public spirit)の量は非常に顕著なものであった。都市における学務委員会の設置は、改善の促進に大きな影響を及ぼした。もしわれわれが、あらゆる社会改良を無期限に延期させる戦争をことができれば、その改善は急速に勢いをうるだろうことは明らかである。だが、議会がそうした公共精神の活動に対する障害を除去し、それに対して教育施設に関するいっそう完全な権限を与える、といったことは課題として残っている。このような理由により私は、自由党の政治家諸氏である」。が以下の事柄を早急に要求するだろうことを確信するものである。すなわち、一定規模のあらゆる都市に学務委員会を設置すること、農村地域にユニオンを単位とする学務委員会を設置すること、そして、どのようなものであれ公共の初等学校はすべて、私が述べた方法によりかつその条件に従って、これらの学務委員会の監視下におかれること、である」
以上みたフォスター法に対するグリーンの見解からも明らかなように、彼の目的とするところは「義務就学、公費負担、非宗派的教育」という近代公教育の諸原理に基づく国民教育制度を樹立し「教育国家Educative State,Erziehungs-staat」を創出することにありました。それはまた「積極的自由」を唱える彼の理想主義国家論から帰結するものでもありました。国家は諸社会に対する調節の権利をもつ全体社会であって、「共同善」という社会的正義の実現に対する「障害の除去」をその積極的課題とするものであります。民衆初等教育は土地財産、労働条件の法定、禁酒などの問題と並んで国家関与の対象とされねばなりません。すなわち「子供を教育する義務を無視することは、その子供の権利を有益に行使する能力の成長を阻止するものであり、教育は、両親の側における純粋に道徳的な義務としてではなく、子供の側における権利のための能力に対する障害の除去として、国家によって強制されなければならない」。
このようなグリーンの国民教育観にたつとき、従来のイギリスの民衆初等教育を支配してきたレッセ・フェールとボランタリズムの原理、宗派的慈恵主義は障害として除去さるべきものに違いありませんでした。「まさに教育を要求し、希望すること、あるいは教育ということを考えることすらできかねる人々であるがゆえに、ボランタリズムの原理は教育には適用できない」。そしてそのような原理を温存させた妥協的性格をもつフォスター法が、グリーンにとて満足すべきものでなかったことは、あらためていうまでもないことでありました。
※ 2022年12月11日・14日・15日・8日の投稿文をup to date.
参考文献
『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』河合栄治郎全集第１巻、第２巻
河合栄治郎(著) 社会思想社
『グリーンの倫理学』 行安茂(著) 明玄書房
『トマス・ヒル・グリーン研究』 行安茂(著) 理想社
『Ｔ・Ｈ・グリーン研究』
行安茂・藤原保信(著) イギリス思想研究叢書 御茶の水書房
『近代イギリスの政治思想研究――Ｔ・Ｈ・グリーンを中心にして』
萬田悦生(著) 慶応通信
次回は「三 中等教育改革構想とその実践 (一)トーントン委員会におけるグリーンの活動」です。
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