野矢茂樹著『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』を読んだのは、少し前だ。
ブクログを確認したら、去年の12月になっていた。もう4ヶ月近く前になる。
kindleの読み上げ機能で、朝のジョギング中や運転中に読んでいた。
そんな前に読んだ本が、どうして今出てくるの?と思われるかもしれない。順を追って説明させていただこう。
野矢茂樹氏というと、私の中では、なぜか勝手に孤高の碩学というイメージができている。
勝手に、というのは、自分がどうしてそういうイメージを持っているのか、根拠をもう覚えていないからだ。
論理とか、国語ゼミとか、哲学とか、言葉の正しい使い方について追及した本を書いているイメージがあるからかもしれない。
本書は、ちょっとちがっていて印象に残っている。
ブクログの読書メモには、読み終えた日は書いていたのだけど、感想を書いていなかった。
なんとなく面白くて、これはいいなと思ったことは覚えているんだけど、このまま半年、一年とたつうちに、読んだことすら忘れてしまうかもしれない。
kindleを立ち上げて、パラパラとページを読んでいった。
あぁ、そういえば、と印象に残ったところを思い出した。野矢氏がある授業で、哲学的な問題に自分自身わからなくなり、しどろもどろになった場面があったね。
ようやく授業を終えて、教室を出ようとしたら、あろうことか一人の学生さんが、
「今日の授業、わかりやすかったです」
と声をかけてきたのだとか。
そこで野矢氏は、自分が流れるような講義をしようとしていたことについての間違いに気づいたのだという。
立て板に水の講義なんて、体育の教師が、生徒にひたすら自分の運動をみせているようなものなのだ、というたとえは見事なもので、クスっと笑ってしまった。
文章を書くことについても同じで、
「読者の姿を見失うとき、文章は問わず語りのモノローグになる。」
そうならないためにどうするか?
「質問を相手にさせる。これが答えである。」
「聞いてもらおうとするならば、たとえ大人数の授業でも、対話型の授業をめざさねばならない。まず問いを発生させる。なんだろう、なぜだろう、どうなっているんだろう、そうした問いの前に学生ひとりひとりを向かわせ、答えへの要求を生み出すのである。」
「書くことも同じである。」
「なにかを主張したければ、「これはいったいどういう問いへの答えになっているのか」と自問するところから始めなければならない。」
さらに次の節では「読ませる文章」というタイトルでつづられていた。
読ませる文章を書くためには、経験を積まなければらない。ただし、たくさん書けば経験を積む、ということにはならない。
野矢氏がいう経験を積むとは、
「たくさん「読んでもらう」ことだ。」
という。
「日記のようにただ書くだけではなく、それを現実の読者のもとにとどけ、現実の反応に出会わねばならない。」
ここで私自身の考えに転じよう。
ときどき、SNSで日記を書く意味について考えることがある。
なぜ、閉じた日記ではないのか。
mixiというSNSにアップするのか。
自分の文章が、おかしなことにならないために、人の目を意識することが大切だと思っていた。
マイミクさんの中には、直に知っている人もいるし、会ったことのない方、マイミクになってから実際にお会いした方もいた。じかに会って同じ話ができるか、ということを考えながら書いている。
書き上げて、これはちょっと愚痴だよなぁとか、何がいいたいのかよくわからないと思ったときは、非公開にしてしばらく寝かせ、たいていはそのまま忘れている。
『哲学な日々」を読み返して、なんとなくふだん漠然と考えていたことを、もう少し明確にしてもらえたような気がした。
お気づきだろうか。
この日記の冒頭で、
「 そんな前に読んだ本が、どうして今出てくるの?と思われるかもしれない。順を追って説明させていただこう。」
と書いた。
これは、読み手に問いを発してもらうという、本書にあった考えを真似したものである。少しでも、ふだんの日記よりも興味を引いてくれたなら、ちょっと楽しい。
本書には他に、哲学について、仏教についてなど、面白い話がいろいろあった。
kindleに入っているわけだし、たまに読み返すのもいいな。
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