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2023年06月20日10:42

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戦争と平和

 人類はこれまで、色々な闘いの歴史を繰り返してきました。今回は「戦争と平和」と題して、戦争が起こる要因や人類が平和を日々感じつつ生きる為にはどうしたら良いか等を見てみたいと思います。
 先ず、私達人類はこの世に生を受けて以来闘いに闘いを重ね、今尚争いのさ中にある人類が後を絶ちません。では、その所謂「争い」や「戦争」が起こる要因とは何でしょうか?それは、人類が実に勝って気ままに生き、その自身のみの私腹を肥やす為にその欲望を前面に出し、自分さえ良ければと日々自身が恵まれる事のみを意識して生きてしまった。その代償が「戦争」と言う悲惨な結果を生み出していると言っても過言ではないのです。そうです、人類は実に身勝手でわがままで、実に私利私欲の為に、隣人を思いやりもせず、生きているのです。何故そうなるのでしょうか?それは、私達人間が所謂「我慢」であったり「譲歩」と言う事に対して、それを滅法不得手として、努力さえせず、或る時は自身の満たしのみを考えて行動してしまい、結果的にその目の前の人が心を深く痛め、その心の傷の分今度は別の他人へと矛先が向いてしまい、実に悲惨な結果を生じ、やがてそれが大きくなると、所謂「戦争」へと発展して行くのです。ここで具体例を示しつつその内容的な考察をしてみたいと思います。たとえば、自身が読みたいと思った記事ではあってもそこに何の読者向けの配慮もされず、実に身勝手な文章を執筆したとしましょう。或る人はそこに怒りを覚える訳です、「こんな読みにくい文章を書いて!」と相手に激しい感情を向けるのです。当然その筆者は、それは懸命に文章を執筆したため、そこにあれこれと口出しをされたりする事は忌み嫌う訳です。ではそこに発生する負のベクトルとは何でしょうか?それは極論ではありますが、「あいつさえ居なければ!」です。そうです、相手に負の感情を向ければその相手はその目の前の人を愛するどころか、攻撃の目を向けてしまい、実に激しい感情がそこに生ずるのです。ですから、この様な場合は、私達は細心の注意を払い丁寧にその文章に触れ、或る時は賛辞を贈る必要が出てくる訳です。勿論それが心から出来れば良いのですが、中々とそうはさせない雰囲気も漂ってくるのです。そうした場合は往々にして自分自身の心に問題がある場合が殆どで、実はその筆者には何ら問題は見当たらないのが世の常と言ったところです。何故でしょうか?それは、この日本に於いては所謂「言論の自由」があり、それを阻害しようとする動きは、自分自身の内側にある故です。であるならばどうしたら良いでしょうか?それは自身の心を良く治め、内省し、この言葉は今相手に向けたらどうなるか?それを熟慮し、最大限の配慮を以て相手に対峙する必要があるのです。もしそれが出来れば世はもっと「平和」になります。いかがでしょうか。そう言われても、発話しなければ損!であったり、はたまたまだ言い足りない!と激しい感情を相手に向てしまうでしょうか?そうなったら世はおしまいです。何故ならそこに「平和」の二文字はなく「戦争」の二文字のみが虚しく生じてくるためです。そうです。「戦争」と言う私利私欲の最大値は、実に虚しいのです。何故ならそれに勝ったとしても、残るのは虚無感のみだからです。何故虚無感のみなのでしょうか?それは、闘いに勝ってしまった時、ふと我に返り、「自身は今まで何の為にこの闘いを多くの犠牲を伴って闘ったのか?」と自問が生まれ、その答えに「何も得られなかった」が存在し、一気に虚無感が襲来するのです。故に私達は常に意識して、電車の座席であれば、譲る方を!そして文句であればそれを賛辞に!変えて行く必要がある訳です。何故ならそこに真の「平和」が生じ引いてはそれが真の「心の平安」へとつながる故です。ですので私達は、「争いたい!」と激しい感情を相手に向けるのではなく、却って賛辞を以て、相手の良き部分に目を行き届かせ、発言に十二分に留意をして、相手を受容し、互いが高め合える、そんな世の中が目指せたら素敵ではないでしょうか?そうですそれほどまでにこの世は荒廃し、私利私欲のぶつかり合いが絶えないものなのです。故に!私達は今一度「戦争と平和」の意義を深く深く考察し!自身なりで良いのです。細やかな努力をしませんか?それを通して貴方が平和の使者になれたらそれはとても素敵な事です。筆者もこの為に努力を怠りません。共に成長しましょう。貴方は「戦争と平和」どちらを目指しますか?


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