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2023年06月13日10:39

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人の足跡を歩んではならない?

 十人十色と言う言葉がある通り、人間の生き様、思考パターン等はその人間の数だけあり、それぞれがそれぞれの考えをするため、そこに対立や同情が生まれます。では、今回タイトルに挙げた「人の足跡を歩んではならない?」とはどんな事でしょうか?その辺りを見てみようと思います。先ず、人間はその存在の数だけ思考パターンであったり、物のとらえ方等が実に様々で、もし仮に尊敬する人が居たとしても、その方の人生そのまま全く同じ人生は歩めない物です。しかし、真似なら出来得るのではないでしょうか?そうです、人の良い所を真似するのは非常に良い事ではありますが、問題はその人の足跡を歩まない事が肝要なのではないでしょうか?何が言いたいのでしょうか?つまり、その人にはそれなりの悩みや苦しみがあり、それをそのまま足跡に感じつつ、そっくりそのままをまるでコピーでもしたかの様に歩むのは正直良くない事です。何故でしょうか?それは、先にも述べた通りその人でしか歩めない人生と言う物、つまり、その人その人の使命がありそれを全うしようと力を尽くして行くのが本来の筋だからです。では、その人でしか歩めない人生とは何でしょうか?それは、正しく自身の人生。要は自分でしか歩めない自分の人生とでも言いましょうか?そうです。自身の人生を代わりに歩んでくださる方は皆無なのです。故に、私達は意識して、人の足跡を歩まない努力をして行く必要があります。私達は実に弱き存在の為、時に横目線で人と人とを比較し、「あの人の人生良いなぁ」や「羨ましい!」となりその人生の足跡を辿る様にその理想の人生が歩みたくもなりましょう。しかし、筆者は敢えてそれをお勧めしないのです。何故ならその人生に失敗があったりした場合、責任転嫁できてしまい、「あの人さえ居なければ!」とその人に激しい感情が向いてしまい、結果的にそこに良き物はもたらされない故です。しかし、横目線で見れば、人の人生が羨ましかったり、はたまた良く見えたりする物です。所謂「隣の芝は青い」と言う言葉に集約される通り、隣の人の生き様は往々にして羨ましく思える物です。しかし、羨ましく思ったとしてもその人生をそのまま歩む事は不可能なのです。現実問題その人となりきる事は不可能である様に、その人の人生はその人でしか歩めません。そして、その足跡を歩む必要もない訳です。つまり、自身の人生はあくまで自身が作り上げるのです。
 さて、人が一生かけて作り上げる物があるのはご存じでしょうか?それはつまり、その固有名詞、そうです、筆者ならば、「ドラゴンクエスト」をその一生をかけて作り上げて行くのです。故に人の足跡はここからも解る通り、「歩めない」のです。では、理想と現実がある中で、人が羨ましい場合はどうしたら良いでしょうか?その場合は今度は逆に自身が歩んで来た自身の人生の足跡を振り返るのです。何故でしょうか?それは、自身の人生を振り返る時、それは実に麗しく、彩り豊かであった事が解るからです。何故そう言えるのでしょうか?それは、その人生は他でもないその人の宝物だからです。故に、ここからも解る通り、他の人の人生の足跡を歩む事は、良くないとされる訳です。しかしながら、横目線で見てしまうと、何故この自身の人生はこうも上手く行かず、あの人ばかりが良き思いをしているのだろうか?とそんな思いも沸き上がる事でしょう。それで良いのです。羨ましい物は羨ましいのです。しかしいつまでもそこに留まってはなりません。何故でしょうか?それは、上を見ればきりが無く、どこまで行っても横目線で見る人の人生は「羨ましい」のです。故にある程度人の事を見てしまったなら、そこに軌道修正が必要になります。軌道修正とは何でしょうか?それは先にも述べた通り、自身の人生を良く振り返り、「ああ!自身はこんなにも恵まれていた!」と自身に対し、しっかりと自身を見つめ直し、「これで良いのだ!」と自身に納得し、それを受容して行くのです。如何でしょうか。そうは言われても隣の芝は青い事でしょう。羨ましいでしょう。しかし、いつまでもそればかりを見てはそこにその人の成長は無いのです。問題は如何に自身の人生に満足し、前を向いて歩むかです。そうです!自身でしか歩めない人生をです!そしてそこに「これで良い!」と納得ができ真の「平安」がある方は実に幸いです。何故ならもうそこに人を羨んだりする気持ちが無いからです。故に人の足跡は歩んではならないのです。

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