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2023年05月01日16:57

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ZARD坂井泉水ゆかりの地,横浜みなとみらい〜Good bye My Loneliness〜(後編)古代天文・数学 ウズベギスタン 山下公園 川和富士公園 

 今回、ZARD坂井泉水ゆかりの地、横浜みなとみらい観光 2/12,4/23の後編である。1stシングルのGood bye My LonelinessのBメロとCメロの歌詞をテーマに、思春期の若者が、恋人を連れて旅する様子を描く。日本大通駅構内のユーラシア文化館で開催中の企画展開催を記念して、前編に続き、ウズベギスタンの政治体制を紹介する。今回新たに14世紀から15世紀に栄えたティムール朝4代目ウルブ=ベク時代の天文学も取り上げる。

 前編日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984934134&owner_id=32437106

 関連日記 シルクロードを旅したソグド人について 2020年10//31 満月のハロウィン withコロナ時代の博物館(3)横浜みなとみらいライド ユーラシア文化館で中央アジアの歴史を学ぶ トワイライト夜景万国橋 サマルカンド ソグド人 新横浜公園の治水能力https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977385164&owner_id=32437106

 目次
・第2章 (4)〜(5)ウズベキスタンの政治体制
・第3章 ウルグ=ベク天文台
・第4章 観光模様 (1)から(3)


 (4)カリモフ体制での欧米との軋轢

2003年のイラク戦争を経て、テロとの戦いが、一段落ついた頃、欧米との軋轢が深まった。兼ねてから民主的な西欧諸国は、カリモフの独裁体制を歓迎していなかった。顕著に現れたのは、2005年5月13日、ウズベギスタンの第4の都市で起こったアンディジャン事件である。反政府派が、自由な社会を目指して、カリモフ体制を打破するべく、政治犯収容所を襲撃した。政府所有の建物も抵抗運動を指揮する反政府武装勢力が包囲した。カリモフ大統領は、ただちに軍を投入し、武装勢力と戦闘状態になった。一般市民も巻き添いになったとの報道から、アメリカや西欧から非難の声があがった。発端になった町名からアンディジャン事件という。

 写真左=アンディジャンの位置 掲載元 旅行のとも Zen Tech https://www.travel-zentech.jp/world/map/Uzbekistan/Andijan.htm
 写真右=アンディジャンの町  掲載元 ANUE TOUR
https://www.tourstouzbekistan.com/jp/cities/andijan.html
フォトフォト

一般人の死者は数百人と推定されるが、正しい情報は入っていない。反政府勢力の行動がエスカレートした原因は、同2005年3月29日に行われた大統領選挙戦にて、カリモフ大統領が圧勝したからである。建国以来、ウズベギスタンの国家元首大統領は1期5年制の2期10年迄と決められていた。1995年と2002年に国民投票により、大統領の任期延長が可能になった。2002年から1期7年まで拡大した。大統領選挙戦と共に、国民投票の結果も改ざん疑惑が出ている。直近では2015年の大統領選挙戦にて、90%の得票を得て、4選を確保した。建国以来憲法改正の手続きを経て、大統領の座にとどまり続けたものの、翌2016年9月2日に、脳溢血のため78歳で死去した。



       (5)ミルジヨエフ新体制の下での情報公開

カリモフ大統領の死去に伴い、暫定的に2003年12月11日から首相を務めていたシャフカト・ミルジヨエフ氏(1957年7月24日生まれ)が国家元首として振舞う。2003年11月15日に結党した中道・右派のウズベギスタン自由民主党に属する彼は、2016年12月4日に投開票が行われた大統領選挙にて勝利し、同月14日に正式に就任する。ミルジヨエフ氏は、第2代大統領のポジションを掴むと、抜本的改革に着手する。選挙の透明性、開放性の向上を図った。欧州安全保障協力機構民主制度・人権事務所(OSCE / ODIHR)の勧告受けて、2019年6月に選挙法典を採択した。立法・行政においても、一部公開に踏み切り、メディアの取材を許可した。知事や市長など行政単位の長についても、一般市民による直接選挙制度を採用した。行政改革においては、ソ連時代から続いていた汚職退治にも乗り出した。国民に伏せられていたカリモフ政権時代の抑圧政策を暴きたて、宗教団体の活動を認め、2017年まで政治犯を収容所から釈放する。2019年に、過酷な拷問を秘密裏で行っていたジャスリック収容所を閉鎖した。報道の自有化のため、法案に意見を述べることが可能になるオンラインポータブルを設立した。国民と対話路線を歩んだミルジヨエフ氏は、西欧との交流機会を図った。唯一口を閉ざすのは、アンディジャン事件の真実である。治安維持部隊の国民への発砲については、政府の関与を否定した。事件について政府側は向き合おうとしない。

 写真=ミルジヨエフ大統領 2021年10月24日、再選を目指して投票する
ロイター通信より
日本経済新聞 2021年10月25日付 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR243IK0U1A021C2000000/
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 議会については、国民の生活を左右する法案の可否について、外部の専門家の意見聴取を避けている。国会議員の決議投票も非公開だった。国境なき記者団が180ヵ国を対象に調査した報道の自由度のランキングで、ウズベギスタンはカリモフ体制終焉後も下位にとどまっていた。2018年165位、2019年160位、2020年156位、毎年ランクを上げているとはいえ、民主的な国とは程遠い現状である。国境なき記者団による評価は5段階評価の下から2番目、「悪い(Bad)」だった。

 なぜ自由度が低いのか、大統領を含め、政治家への直接批判は法律で禁止されているからである。ネット情報の監視体制も強化し、時の政権の都合が悪い情報を削除していた。

 詳細 GNV 新時代のウズベギスタン 抑圧時代からの開放!? 2021年2月11日より
https://globalnewsview.org/archives/14026
https://astro-dic.jp/about/asj/
 日本のように、政治家が不祥事を起こしても、メディアは正しく報道することができない。政府側は、失敗を恐れる心配がなく、未だに都合のよい情報のみを国民に流し続ける。確かな実績は、17年から20年かけての経済成長率をプラス18%向上させたことにある。前カリモフ大統領からの「漸進主義」を継続し、国営企業から民営化への移行を進めた。電力・石油・ガス、通信など国有企業を民営化した。採算ベースを考えて経営したことにより、余分な経費はかからなくなった。国民所得は2016年から2021年までの5年間で、28%増加している。2021年10月24日に投開票が行われた大統領選挙戦にて、ミルジヨエフ氏は、前政権よりも国民に歩み寄った姿勢が評価され、80,1%の得票率で再選を果たした。より公平性をアピールするため、選挙当日、欧州安全保障協力機構(OSCE)と上海協力機構の役員を含め、631人を監視体制に当たらせた。選挙後、OSCEはミルジヨエフ氏以外の4候補は政権寄りと判断し、選挙戦の結果を「真の競争を欠いていた」と指摘した。

 選挙について 2021年11月7日付け 世界日報アーカイブス
https://sub.worldtimes.co.jp/world/asia/137932.html



 2期目に入った大統領は、国民から信任を得たとして、前任者のカリモフ大統領に倣い、憲法改正手続きを踏む。2023年4月30日に、大統領の任期を巡り、国民投票が行われた。改憲案は、大統領の任期を2期5年から2期14年に引き伸ばす。もう一つは、次の2026年の大統領選挙戦終了後、任期数をゼロに戻し、さらに2期14年追加できる。国民投票において可決されれば、ミルジヨエフ大統領は2040年まで同ポジションを得ることになる。憲法改正の是非を問う国民投票を迎えるにあたり、抵抗運動が起きていた。改憲草案には、同国西部人口170万のカラカルパクスタン自治共和国の権限縮小が盛り込まれていたのである。政府から改憲草案が発表されると、自治共和国の住民は危機意識を共有した。2022年7月1日、自治共和国の首都人口31万のヌクスにて、1000人規模で従来の住民投票による独立権利の維持を求めて、デモが起こったのである。治安維持部隊の突入により、2日後の7月3日には平常を取り戻した。翌7月4日、ウズベク治安当局は、一連の抗議行動により、死亡者18名、当局者を含め重軽症者243名と明らかにした。大統領は、当該条項を撤回し、自治共和国内にて1ヶ月間の非常事態宣言を発令している。同月21日には、秩序回復を理由に、期限を待たずして解除した。

ミルジヨエフ大統領は、権力基盤を磐石な物にし、海外からの投資を招き、経済成長を目指す。世界銀行が発表した2020年版のビジネス環境ランキングの順位からも、期待度が高い。2012年の166位から、8年のあいだに100か国近くをごぼう抜きにし、69位まで上がった。投資環境ランキングでもこの5年で141位から69位まで上昇した。

 豊富な天然資源を生かして、外交関係を築く。国の未来は、現政権にかかっている。

第3章 ウズベギスタンの歴史 ティムール朝2代目ウルグ=ベク
  
シルクロードの要衝現在人口36万のサマルカンドは、1370年に帝位についたティムールが好きだった青を基調にした建物が目をひく。ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族出身である。いわゆるイスラム教を信仰するモンゴル人である。西チャガタイ=ハン国、イル=ハン国、キプチャク=ハン国の旧モンゴル帝国のハン国を塀合し、中央アジアから西アジアに及ぶ一大帝国を作り上げた。

 写真=ティムール朝の版図 掲載元 経済プレミア 2020年12月3日
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20200131/biz/00m/020/002000c
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最大の成果は、西アジアで台頭したオスマン帝国の東方進出を阻んだことにある。1402年7月20日、アンカラの戦いで、像を使った戦術により、敵軍を圧倒し、4代目君主バヤズィッド1世を捕虜にしたのである。彼に味方をしたのはベイリク(小国の主)だった。オスマン撃退後、ティムールの力を受けて、ベイリクは一時再興された。ティムール朝が滅んだ後、オスマンの勢力が盛り返すと、立場が危うくなった。5代目のメフメト1世に屈して、配下になる。6代目のムラト2世の次代に、25年かけてベイリクは一つに統一された。

オスマン帝国は、ベイリクを服従させ、より豊かな西へと向うことになる。ティムールは、1404年、滅亡したモンゴル帝国再建を掲げ、明(現在の中国)を目指して出発したものの、翌1405年に志半ばで死亡した。死後も影響が残る。デリーのサイイド朝は、ティムール朝3代目のシャー=ルフの保護政策を受けていた。王朝の力が弱くなると、他国からの侵略を受けやすくなり、1451年にロディー朝に滅ぼされた。



学術的には、ティムール朝4代目、孫の1人、ウルグ・ベグが貢献した。古都サマルカンドからタクシーで20分の距離にある西暦1420年に設立されたウルグ・ベク天文台は、15世紀に最先端の天文機器を備えていた。天文台の名前を冠したウルグ・ベク(西暦1394年―西暦1449年10月27日)は、ティムール朝第4代の君主(在位1447年―1449年)、統治者としての年数は短いものの、サマルカンド総督時代に数学や天文学の礎を築いた。ウルグ・ベクの死去により、保守的なイスラム教徒によって天文台は破壊され、時と共に風化し、砂の中へと消えた。

      

 1908年、サマルカンドの遺跡発掘調査から、600年の眠りから目覚めた。当時ロシアの考古学者ヴャトキン氏が、一大発見をした。1420年の天文台創世記に使われたとみられる円弧の半径が36mになる巨大六分儀を含め、資料が見つかった。一般公開された発掘現場から当時の様子を物語ることができる。

以下 遺跡関連3枚の写真掲載元 2017年春 ウズベキスタン紀行 第二日目 ウルグベク天文台
http://inoues.net/family/uzubekistan/uzubekistan2_2.html?
フォト

ウルグ・ベグは、50人の数学者と天文学者を指揮して、日月、惑星、恒星の精密な観測を行ない、天文表と1080個の星の軌跡を辿った。作成した「ウルグベク星表」は、古代エジプトのプトレマイオス星表以後、中世時代において、最も完成度が高いと後世の天文学者から評価されている。当時星表作りに貢献したのは、ペルシャの天文学者アル=カーシーといわれている。1380年にペルシャのカシュアン(現在イランのイスファハーン)に産まれた彼は、1406年に月食を観測した。ウルグ・ベグは君主になる前から、アル=カーシーの才能に目をつけ、サマルカンドへ招いた。
 
 
写真=ウルグベク天文博物館     写真=地下遺跡 巨大六分儀
フォトフォト  

 以下ウィキペディアの文章 一部修正

 1424年の著作『円周論』では、小数点第16位まで円周率の近似値を求めている。
1427年には『計算法の鍵』という著作をあらわし、アラビア数学の代数学と算術についてまとめた。10進小数についての解説や、n乗根を求める方法、1度の正弦の値を求めるための3次方程式の解などが書かれている。掛け算などの過程は、2023年現在とほぼ変わらない。もう一つ現代の数学者の助けとなる精密な三角関数表を作成したことにある。その成果として、余弦定理によって、三角測量が使いやすくなった。西欧のフランスにおいては、、余弦定理を「アル・カーシーの定理」(Théorème d'Al-Kashi) と呼ぶ。天文表(Zij)を作り、アル=カーシーの方法にならった正弦表は、ウルグ・ベクやサマルカンドの天文学者たちに利用された。合を計算するためのアナログコンピュータも作ったとされる。
                           終わり

ウルグ・ベグが管理する天文台は、アル=カーシーを中心に優秀な数学者と天文学者の力をかりて、画期的な答えを導き出した。当時の恒星年(地球が太陽を回る周期)、つまり1年を365日6時間10分8秒とはじき出した。今日の最新技術で測定した結果、365日6時間10分9.6秒である。誤差は1分未満に過ぎなかった。 

 詳細 ADVANTOUR https://www.advantour.com/jp/uzbekistan/samarkand/observatory.htm

 機械がなかった時代、星の動きを正確に観測し、数式の力によって、地球の一年を割り出していた。ウルグ・ベグ亡き後、ティムール朝は子孫によって分割され、同じ現ウズベギスタンのブハラを首都にしたシャイバニー朝に吸収された。ウルグ・ベグが養育したティムール朝の跡継ぎアブ・サイードが、帝国を破壊したといえる。兼ねてから、総督時代のウルグ・ベグを追い落とすべく、反乱の機会をうかがっていた。密告にあい、投獄された中、同士に救出された過去がある。アブ・サイードは、1450年にブハラで興ったシャイバニー朝の創始者であるアブル=ハイル・ハンと手を結んだ。しっかりと準備を整えたことにより、反乱は成功する。ティムール朝第6代アブドゥッラーを処刑し、第7代としてサマルカンドを治めた。破竹の勢いで1461年にアフガニスタンの大部分を征服したものの、1467年にイラン西部で興った白羊朝のウズン・ハサンとの戦いに敗れ、処刑されたのである。

 ティムール朝は滅んでも、イスラーム文化は残り、砂漠の中で歴史を刻んだ。アブ・サイードの四男の子、孫の一人であるバーブルが、インドにてムガル帝国を建国した。

21世紀のウズベギスタンは、ティムール朝の遺産をしっかりと受け継いでいた。王朝が建てた青一色の建物から成る町は、2001年に世界遺産に登録されている。観光客の増加により、ホテル業や航空業界、飲食業界が恩恵を受ける。天然資源の発掘にも余念がなく、海外からの投機マネーを呼び込み、自由で開かれた社会を目指して邁進している。

 
第4章 みなとみらい訪問 Good bye my lonelinessBメロの歌詞

写真=Good bye my Lonelinessのジャケット
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  (1)Bメロの歌詞 人形の家、シルクセンター

ZARDのデビューシングル「Good bye my loneliness」のBメロの歌詞は、主人公の不安になる日常を綴っている。

 Bメロ冒頭の歌詞:つれない恋の行方は季節任せ、いつも未来が雨で見えない

 バブル崩壊後、就職氷河期に突入する中、若者の気持ちを代弁している。経済の先行きが見通せず、恋をすることさえ、ためらってしまう。

 続く歌詞:霞む都会のtear drops 臆病になるの、冷めた思い 暖めてほしい

 ビルが犇く都会は、太陽光がビルのガラスやコンクリートに反射して、まぶしさで時に涙が出てしまう。気温は高くなっても、心は冷たい状態だった。不安を抱く若者には、そばにいてくれる恋人の存在が必要だった。

 マリンタワーに隣接した横浜人形の家では、常設展に関しては度々入れ替えがある。企画展の際には、他館から展示品を借り、毎回テーマを決めて、開催する。西欧から日本まで、幅広い地域で生み出された人形を扱っていた。

 写真=アルメニアの人形
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4月23日(日)、都筑区の個人のツツジ庭園を訪問した後、山下公園に程近い、シルクセンターを訪れた。前日の22日から6月4日(日)の日程で春の企画展「絹を彩る鳥達」が開催中である。

 色鮮やかな鳥達がモチーフになっていた。

 
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 写真右下 コマドリの写真 2022年4月埼玉県さいたま市秋ヶ瀬公園にて、撮影者:私の知人 週末写真愛好家    

スズメ目ヒタキ科に属するコマドリは、体調わずか14cm、春から夏にかけて列島に飛来し、森の中で子育てする。春の渡りの時期は、度々首都圏の公園でも目撃される。小さい体のわりには、薮の中で大きな声で鳴く。古くから人々は、馬のいななきを想像して、「駒鳥」と名づけた。首元から頭にかけての鮮やかなオレンジの光沢に目を奪われ、目撃情報が入ると、バードウォッチャーが殺到する。昔も今もコマドリは、人々の視線をひきつけていた。

横浜は1859年の開港以来、絹の輸出に関して、日本一位を保ってきた。きっかけは、国際的情勢の変化にある。1845年頃、欧州では蚕特有の微粒子病が流行したことにより、生産量が落ちていた。アジアで生産一位を誇る中国では、アヘン戦争から始まり、国内の太平天国の乱により、貿易ルートが途絶えたのである。横浜港には、長野県の岡谷や諏訪、群馬の富岡を含め、関東・甲信越で生産された絹糸を集積し、海外へ送り出していた。現在のJR横浜線(東神奈川駅から八王子駅間)は、かつての絹の道を辿っている。沿線内の八王子南野駅から東へおよそ2kmの八王子市鑓水町には、絹の道を記した石碑が立つ。

 1935年に合成化学繊維ナイロンが発見されたことにより、養蚕・製糸業は衰退した。今なお横浜港の1角と八王子市鑓水町では、資料館として残り、歴史を伝えている。

  (2)山下公園から本牧町三渓園

 海に面した山下公園では、5月7日までの日程で、花壇展が開催されていた。
Atelier302 お散歩フォト https://shinseiken.jp/spring-fair-yamashita-park/

写真=会長賞 濱田園 作品名 春の棚田 
フォトフォト

ベンチでは、仲良く肩を寄せ合うカップル、通りでは、ベビーカーを押して仲良く会話をする若夫婦の姿がある。恋人から返事を待つ主人公、再会後の心境は複雑だった。

 Bメロのサビの歌詞:good bye my loneliness 信じていても 二人 Faraway 思い出になる だから 今は そばにいてほしいの 抱きしめて全て忘れさせて

 汽笛が鳴る公園の、花園で一緒にいたい、寂しい田舎から都会へ戻ってきた主人公は、決意を秘めていた。

 Cメロのサビは最終章へ

 22日(日)は、港の見える丘公園内のイギリス館と山手111番館を見学した。室内でミニコンサート中の山手111番館の一室では、23日までの4日間限定で、人形が飾っていた。
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 根岸森林公園へ続く山手通りからやや北に反れたイタリア山庭園には、ハンキングバスケットコンテスト展が開催中だった。

 詳細 財団法人横浜緑の協会 https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/italia/details/202304221609.php

最優秀賞作品
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 春のみなとみらい地区と山手地区は、横浜ガーデンネックレスの一環として、花園へと変わっていた。不景気のさなか、進路に迷う若者も、一緒に寄り添ってくれる人がいれば、鮮やかな花に心が彩られる。間もなく、手入れされたバラが本格的に咲き出す。

 根岸森林公園内の馬の博物館で開催中の春の特別展は、撮影自体全面禁止、馬をモチーフにした浮世絵が展示されていた。

 午後4時前、陽が傾きかけた中、本牧地区の三渓園を訪れた。大池沿いに植えられたツツジは、見頃を迎えている。淡い夕日に照らされて、白の花がほんのりと赤くなった。日中の暑さが和らぎ、海風を受けると、涼しく感じられる。ツツジの甘い蜜の香りを嗅ぐと、心も体も軽やかになる。

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合掌造りの旧矢箆原家住宅では、五月飾り人形が展示されていた。
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三渓園は、江戸時代の古き良き日本の伝統文化を感じることができる。歌詞に描かれた主人公は、いよいよ恋人へ誓いの言葉を述べる。


        (3)夜景スポット 

 2月12日(日)と4月23日(日)に、旅の最後に訪れたのは夜景スポットである。

 2月12日の舞台は、馬車道に程近いノートルダム横浜みなとみらいである。運河を挟んで対岸には、コスモクロックとインターコンチネンタルホテルが向かい合う。その手前の汽車道の上空を、都市型ロープウェー、エアキャビンが通る。

 写真=17時39分 JR桜木町駅方面
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 乗車は、デート向けに、一組一つのキャビンを使用できる。たった二人っきりで、暮れゆくみなとみらいの町並みを眺めると、心が弾んでいく。

Cメロのサビ「Goodbye my loneliness 信じていても きっと faraway 思い出になる」

 試験やスポーツ大会において、結果が出ずに、悔しさを感じることもある。これからの人生、楽ではない。それでも、仕事において昇進を含め、目標を掲げることにより、人生前向きになれる。

 写真=17時40分 北側のコスモクロックとインターコンチネンタルホテル
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 写真=17時42分 北側の運河パーク駅とワールドポーターズ
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 4月23日の舞台は、みなとみらいから北西へ13km離れた都筑区川和富士公園、個人宅のつつじ園から距離にして北へ1km程だった。公園の中心に聳える塚の天辺に到着時、三日月と金星を狙うカメラマン数人グループが、手すりに肘をつきながら、夜空を見上げていた。麓の芝生広場では、日没後も駆けっこやボール遊びをする子供の声が聞こえた。

 写真=18時43分 南側の横浜沿線沿い 18時44分 南西側を撮影
フォト フォト   

 南側にはみなとみらいのシンボルランドマークタワーが聳える。大きく視界が開けた南西側は、町田市や相模原市、大和市、横浜市南部まで関東平野が広がる。薄暮れ時恋人と町並みを俯瞰する青年、住宅地から一つ、また一つと明かりが灯るたびに、心の炎が燃え上がる。

 サビの歌詞の続き:「だから今は行かないで欲しいの、抱きしめて 夢が消える前に」
                                END

人生はタイミングが何よりも大事、海沿いの花々に彩られたみなとみらい地区から、湖北ニュータウンの1角川和富士公園へと移動してきた二人、塚の上で風に当たりながら、いつまでもたたずんでいた。

 我々人は時に岐路に立たされる。大切な人との別れやせつなくなったとき、高台から見おろす夜景によって、いくらか心が救われる。作詞者坂井泉水が、2007年5月27日にこの世を去って間もなく16年、彼女が残した言葉は色あせることはない。時を越えてもなお人々の心に届いている。今回の中心の舞台みなとみらいの町は、人口減少時代においても、活性化している。


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