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2023年01月31日05:41

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足利紀行29 星宮神社 / 長福寺

 5日木曜日は耳だれ地蔵堂から県道40号線を東南へ進み、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)を祭る星宮(ホシノミヤ)神社〔村社〕を訪れました。
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 星宮神社の由緒は不詳ですが、覆屋(オオイヤ)の中にある本殿〔足利市指定文化財〕は享和元(1801)年の再建です。
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 本殿は柿葺(コケラブキ)一間社流造で、正面柱間125cm・奥行き111.5cmです。
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 本殿には中国の神仙の伝説などが題材となっている彫刻が全壁画・腰壁面・脇障子等まで全体的に施されており、江戸中・後期の特徴を良く示す物として極めて貴重なものです。
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 平成10(1998)年度に彩色保存修理が実施され、約200年前の再建時の彩色が甦りました。
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 星宮神社拝殿内陣には、地租改正の説明、土地の測量に関する心得等、八種類の図で構成された地租改正絵馬〔足利市指定文化財〕が掲げられています。
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 地租改正地籍図〔足利市指定文化財〕も、縮尺600分の1の二種類の「下野国梁田郡梁田駅図」が保存されています。
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 測量用平板〔足利市指定文化財〕や検尺(ケンジャク)〔足利市指定文化財〕も保存されており、明治6(1873)年の地租改正の実態を知る貴重な史料となっています。
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 続いて県道40号線を東南へ進むと、曹洞宗梁田山長福寺があります。
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 慶長年間(1596〜1615)の創建で、本堂は平成2(1990)年の再建です。
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 この付近は旧日光例幣使街道梁田宿(ヤナダジュク)だった場所です。
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 慶応4(1868)年1月3日に戊辰戦争が勃発すると、足利藩主戸田忠行は態度を逡巡させますが、家老川上広樹が藩内を新政府支持で纏め上げたため、それに従う事になりました。3月9日には徳川軍歩兵部隊の衝鋒隊900人余と、薩長両藩兵を主力とする新政府軍200人余が梁田宿で激突する事件が起きましたが、少人数ながら高性能銃を持つ新政府軍が圧勝しています。この戦いは梁田戦争と呼ばれます。
 長福寺境内には明冶戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑〔足利市指定史跡〕があります。
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 台の上に建てられた高さ260cm・幅77cm・厚さ15cmの碑で「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建立」とあり、さらに尽力者五名の名が刻まれています。内田万次郎は父と共に幕府軍側で梁田戦争に参戦し、その後も五稜郭まで徹底抗戦を貫いた人物です。戦後、特赦を得て大蔵省印刷局に奉職し、退職後にこの碑を建てました。
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 隣には梁田戦争戦死塚〔足利市指定史跡〕があります。
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 旧幕府軍戦死者の墓で、多数の石塊(セッカイ)を積んで石塁とし、上に高さ105cm・幅120cm・厚さ20cm程度の扁平な石碑を置いています。梁田戦争直後、村民により渡良瀬川の河原に建てられましたが、洪水によって塚の一部が抉(エグ)られる事態が発生したため、現在地へ移設されました
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《続く》
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