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2023年01月06日01:00

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足利紀行4 足利の歴史【古代・中世編】

 今日は足利の歴史について書いてみたいと思います。
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 足利の地は、足尾山地南麓に当たる渡良瀬川沿いの沖積地で、支流の名草川・袋川等の出口に当たる広い谷間が中心となっています。
 旧石器時代の遺跡が山麓の緩斜面で確認されており、南部の高松遺跡は縄文時代早期から平安時代にかけての複合遺跡です。
 弥生時代後期になると、河川沿いに多くの集落が成立し、南関東と同様の土器が用いられていました。
 5世紀には全長13mの前方後円墳である藤本観音山古墳が築造されており、大和朝廷の支配が当地にも及んだ事が明らかです。6世紀後半から7世紀にかけては横穴式石室を持つ円墳の群集墳が多数成立し、日本有数の古墳分布地帯となっています。
 当地の国造である下毛野君(シモツケヌノキミ)は、西隣の国造である上毛野君(カミツツケヌノキミ)と共に、人皇第10代崇神天皇48年(50B.C.)年に天皇の命で東国統治のために派遣された皇子の豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の子孫と称し、律令制導入後は中央に出て、人皇第43代元明天皇時代に正四位下参議として公卿に列した下毛野古麻呂(シモツケヌノコマロ)等が出ましたが、以後は中下級貴族に留まりました。なお、金太郎のモデルとして知られる坂田金時(サカタノキントキ)も下毛野が本姓で、藤原道長の随身を務めた人物です。
 律令制下では、当地北部は下野(シモツケ)国足利郡、南部は梁田(ヤナダ)郡とされ、現在の足利市街中心部に当たる■家(ウマヤ)郷に足利郡衙(グンガ)と駅家(ウマヤ)が置かれました。
 後に有名になる足利学校は、下野国府の国学が前身で、足利郡衙付近に設けられていました。下野国府は当初足利郡に設けられ、後に現在の栃木市へ移転したとの説が有力なのです。その後、承和9(842)年に陸奥守に任じられた小野篁(オノノタカムラ)が途次に足利学校を再建したとされますが、当時の篁は東宮学士も兼ねていたため、陸奥へは遥任だった可能性が強く、下野国に赴いた可能性は低いです。篁は、その反骨精神から野狂・野相公・野宰相等の異名で呼ばれていましたから、野州(下野国)と牽強付会に結びつけられたのかもしれません。尤も、篁は地獄とこの世を自由に往来していた伝説を持つ人物ですから、下野へ赴くくらい楽勝だったとも言えますが…。
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 天慶3(940)年に平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(フジワラノヒデサト)が鎮守府将軍・武蔵守・下野守に任命され、以後、その子孫は関東各地で栄えますが、その子孫の一人である成行(シゲユキ)は天喜年間(1053〜58)に足利郡の標高251mの両崖山に足利城を築いて本拠とし、足利氏を称しました。この一族は藤姓足利氏と呼ばれ、大胡・佐野・阿曾沼等の分家が両毛地帯に割拠する様になり、下野国小山を領した同族の小山氏と勢力を争って「一国之両虎」と称されました。成行の子の家綱は梁田郡内の開発私領を伊勢神宮内宮に寄進して簗田御厨(ヤナダミクリヤ)を立券しています。
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 一方、永観3(985)年頃に源満仲が下野守に任じられて以後、頼光・頼信・頼義・義家と清和源氏が下野守に任じられる事が増えて、下野国は清和源氏、特に河内源氏の有力な基盤ともなって行きます。
 この様な状況下の康治元(1142)年、源義家の四男義国が父から伝えられた開発地を、鳥羽上皇が建てた寺である安楽寿院に寄進し、足利荘が成立します。当時、土着豪族の藤姓足利氏は坂東平氏の一族である常陸国の大掾(ダイジョウ)氏への対抗のため、都の軍事貴族である清和源氏に臣従していたため、足利荘では源義国が預所職(アズカリドコロシキ)を、藤姓足利家綱が下司職(ゲスシキ)を担って共存する事となったのです。
 ところが、義国は翌康治2(1143)年に藤姓足利氏の基盤である簗田御厨へ介入、伊勢神宮内宮へ再寄進したため、足利家綱は訴訟を起こしますが、鳥羽法皇の裁定で足利荘と同じく源義国が預所職、藤姓足利家綱が下司職となり、義国は簗田御厨の権益の多くを奪う事に成功しています。即ち、早くも河内源氏と藤姓足利氏の対立の芽が生じて来たのです。なお、現在、足利荘と簗田御厨の間を渡良瀬川が流れていますが、平安時代の渡良瀬川は現在の栃木・群馬県境となっている矢場川のラインを流れており、足利荘と簗田御厨は隣接していたため、やがて一体化して行く事となります。
 その後、久安4(1150)年に至り、義国は内大臣徳大寺実能(トクダイジサネヨシ)と紛争を起こして実能の屋敷を焼き払う挙に出たため、鳥羽法皇の逆鱗に触れて都から追放され、足利荘へ移住して直接現地管理を行う様になったため、藤姓足利氏との対立が深刻化します。
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 保元2(1157)年、義国の長男義重(ヨシシゲ)は上野国の金剛心院領新田荘の下司に任じられて新田氏を称し、義国の次男義康は足利荘・簗田御厨を本拠として足利氏を称します。これが源姓足利氏です。義康は足利荘に居館を設けています。
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 新田荘の開発には藤姓足利氏も関わっていましたが義重によって荘内から排除されてしまい、仁安年間(1166〜69)には藤姓足利家綱の子の俊綱が女性を凶害した事を理由として足利荘下司職を解任され、権大納言平重盛が新田義重に足利荘を賜うという事態が生じます。俊綱の愁訴によって足利荘下司職解任は何とか回避されましたが、藤姓足利氏と清和源氏の対立は決定的となったのです。
 この結果、治承4(1180)年5月に以仁王(モチヒトオウ)・源頼政が挙兵すると、藤姓足利氏は清和源氏への対抗のため平家政権に与する事を選び、俊綱の嫡子忠綱は平氏軍に加わって宇治川の先陣渡河を成し、頼政軍撃滅に大功を立てました。この結果、忠綱は勧賞として俊綱が渇望していた地位である上野大介任官と新田荘を屋敷所にする事を平清盛に願い出て認められましたが、他の藤姓足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため2時間後に撤回となってしまいました。この騒動からも判る様に藤姓足利一門は内部統制が弱かったのです。同年10月に源頼朝が鎌倉政権を樹立すると、足利俊綱・忠綱親子は頼朝の叔父に当たる常陸国の志田義広と結んで頼朝に対抗しましたが、寿永2(1181)年2月の下野国野木宮(ノギミヤ)合戦で源範頼麾下の鎌倉軍に敗れ、養和元(1181)年9月に俊綱は鎌倉軍が迫る中、家人によって殺されてしまいました。足利忠綱は降伏して助命され、大胡・佐野・阿曾沼等の藤姓足利一門も頼朝に帰順して鎌倉御家人として生き延びました。
 一方、源姓足利氏の当主の座は義康から長男義清へ継承されましたが、義清は木曽義仲に与して寿永2(1183)年閏10月の備中国水島の合戦で平重衡(タイラノシゲヒラ)麾下の平家軍に敗れて戦死してしまいます。一方、義清の弟義兼は足利荘を守っていましたが、鎌倉政権成立直後から源頼朝に臣従し、北条政子の妹時子を妻としていたため、頼朝への臣従が遅れた伯父の新田義重を差し置いて、義国流源氏の惣領と見做される事となります。
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 義兼は元暦元(1184)年の木曽義仲残党征伐で功績を挙げたのに続き、元暦2(1185)年の平家討滅戦で源範頼軍に属して活躍した功績で、足利荘・簗田御厨の地頭職を安堵されたのみならず、頼朝の知行国である上総介にも任ぜられるなど、源氏一門として鎌倉政権の重鎮となりました。文治5(1189)年の奥州合戦にも従軍し、建久元(1190)年に出羽国において奥州藤原氏の残党大河兼任(オオカワカネトウ)が挙兵すると、追討使としてこれを撃滅しています。
 しかし、義経・範頼等の源氏一門が次々に粛清されるのに危機感を抱いた義兼は建久6(1195)年に東大寺で出家、足利荘の居館で隠棲する事となって、廃絶していた足利学校を再興したとも伝えられます。
 なお、義兼の正室時子に関しては、建久7(1196)年に侍女藤野が汲んで来た井戸の生水を飲んだところ妊娠した様な腹になり、これを藤姓足利忠綱と密通して身籠ったのだと藤野が讒言した事から、身の潔白を示すために自害、その遺言どおりに遺体を改めると腹から大量の蛭が出て来たとする怪しげな「蛭子伝説」が伝わります。義兼は藤野を誅し、忠綱を成敗したため、藤姓足利氏本家は滅亡してしまいました。
 同年、義兼は足利荘の居館に大日如来を奉納した持仏堂である堀内御堂を建立し、時子を弔うため智願寺殿御霊屋(蛭子堂)も建立、蛭のいた井戸は閉鎖されて「開かずの井戸」となりました。
 その後、義兼は居館を嫡男義氏へ譲って、足利荘東北部にある樺崎寺に隠居、正治元(1199)年に同寺に於いて即身成仏し、そのまま葬られました。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂です。
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 足利義氏は北条泰時の娘を正妻に迎え、承久の乱(1221年)の後に三河守護職を獲得したため、庶長子の長氏を三河国幡豆(ハヅ)郡吉良荘に住ませて足利氏の分家吉良氏を誕生させています。また、足利荘居館の堀内御堂を拡大して伽藍を整備し、父の戒名に因んで鑁阿寺(バンナジ)と名付けた外、母時子の菩提を弔うため法玄寺を建立しています。鑁阿寺は足利一門の氏寺として信仰を集める事となりました。
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 義氏の嫡男泰氏は、当初名越流北条氏の北条朝時の娘を正室に迎えて家氏・義顕を儲けましたが、後に得宗家の北条時氏の娘と婚姻する事となったため、これを正室として頼氏を儲けました。但し、時氏の娘は宝治元(1247)年に早世しています。一方、朝時の娘は側室に移されて家氏は廃嫡された結果、後の斯波氏の祖となる足利尾張家を興し、義顕は渋川氏を称しました。また、泰氏が桜井判官代俊光の娘との間に儲けた七男公深(キミフカ)は俊光より三河国幡豆郡吉良荘の地頭の身分を譲り受け、吉良荘一色郷に住んで一色家を興しています。
 建長3(1251)年、泰氏は突如36歳で無断出家したため執権北条時頼から咎められ、所領である下総国埴生荘を没収されて、足利荘居館に閑居する事となりました。但し、存命中だった義氏に咎めは無く、建長6(1255)年に義氏が死去すると、足利荘・簗田御厨等の所領は孫の頼氏へ継承されています。
 なお、足利荘・簗田御厨等は安楽寿院領から八条女院領へ継承されており、大覚寺統皇室が事実上のオーナーとなっていました。
 足利頼氏は上総・三河の守護を歴任するなど、幕府重鎮として活躍しますが、北条一門の佐介時盛の娘である正妻との間には子が出来ず、側室である上杉重房の娘との間に生まれた家時が嫡男となります。
 弘長2(1262)年に頼氏が死去した際、家時はまだ幼かったため足利尾張家氏が家督を代行しましたが、文永6(1269)年頃から家時が家督権を掌握した様です。
 家時は執権北条時宗の下で式部丞や伊予守を歴任するなど重用されましたが、弘安7(1284)年4月4日に時宗が死去した直後の6月25日に突如自刃しています。この件に関しては、内管領平頼綱と有力御家人安達泰盛の権力闘争に巻き込まれたとの説や、時宗への殉死だったとの説があります。また、応永9(1402)年に今川了俊が著した『難太平記』によれば、足利氏の先祖である源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」との置文を残していたものの、義家の七代の子孫の家時は自分の代では達成出来ないため八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したとされています。二代後の子孫である足利尊氏・直義兄弟はこれを実見し、了俊自身もその置文を見た事があると記されています。
 家時の死を受け、嫡男貞氏が12歳で足利氏当主となって、北条一門の金沢顕時の娘(釈迦堂殿)を正室に迎え、執権北条貞時の下で讃岐守に任じられるなど重用されました。正安3(1301)年に貞時が執権を辞職して出家した際、貞氏も出家し、正和3(1314)年頃に釈迦堂殿の産んだ嫡男高義に家督を譲りましたが、文保元(1317)年に高義が早世してしまったため、貞氏が家督を回復、側室上杉清子の産んだ次男の高氏が後継者に浮上しますが、執権北条高時は高義の遺児を後継に望んでいたため、高氏は公式には嫡男とされませんでした。
 元弘元(1331)年8月24日、大覚寺統の後醍醐天皇が京都を脱出して挙兵する元弘の変が起きると、高氏は病床の父に代わって出陣を命じられて、北条一門の大仏貞直(オサラギサダナオ)等と共に西へ向かいますが、9月5日の貞氏死去の報を聞いた高氏は喪に服すため交戦辞退を申し出ました。しかし、得宗高時によって却下されたため、高氏は高時を恨む様になったと伝えられています。貞氏の死により高氏が足利家督を相続しましたが、高義の遺児が成長するまでの中継ぎ的な形だった模様です。高氏は大仏貞直等と共に9月28日に後醍醐天皇の拠る山城国笠置山を攻略して天皇を捕縛、楠木正成の拠る下赤坂城も攻略しましたが、父の菩提を弔うため11月に朝廷への挨拶もしないまま鎌倉へ戻ってしまい、持明院統の花園上皇を呆れさせています。
 北条高時は高氏に従五位上の位を与えて功績を嘉しましたが、元弘3(1333)年閏2月に後醍醐天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山に拠り、大覚寺統がオーナーである全国の八条女院領荘園の地頭へ討幕の綸旨を発します。即ち、八条女院領足利荘地頭である高氏の下へも密かに綸旨が届いていましたが、得宗北条高時は高氏に対して北条一門名越高家と共に再出撃する事を命じます。
 高氏は京都への途次、吉良氏・一色氏等の足利一門が盤踞する三河国に於いて幕下諸将に討幕の決意を伝えたとされていますが、これには北条政権が継続した場合、自分は何れ高義の遺児へ家督を譲らねばならないとの個人的事情も絡んでいた筈です。
 京都へ入った幕府軍は、名越高家が山陽道、高氏が山陰道を進んで船上山を目指す事となりましたが、4月27日に高家が宮方の赤松円心と山城国久我畷で合戦して呆気無く戦死した報を受け取った高氏は、丹波国篠村八幡宮で討幕挙兵に踏み切り、5月7日に京都の六波羅探題を攻略したのです。
 こうして高氏は後醍醐天皇から大功を嘉され、従三位に叙されて公卿に列し、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名しています。
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 やがて足利尊氏が幕府を樹立すると、足利荘は足利家発祥の地として重視される事となり、将軍直轄領である幕府御料所となりますが、京都から遠方にある足利荘は幕府の直接管理が不可能であったため、鎌倉府が管理を代行しました。なお、簗田御厨は足利荘との一体化が進み、足利荘の一部と見做される様になっています。また、鑁阿寺は将軍家氏寺として多数の荘園を寄進され、全盛時の所領は150000石にも達する事となります。
 足利の絹織物は奈良時代から高く評価されていましたが、貞和5(1349)年頃に著された『徒然草』には「さて年毎に給はる足利の染物」と記されています。
 永徳2(1382)年、鎌倉公方足利氏満に反乱を起こしていた下野守護小山義政が滅亡すると、代わりに守護になった木戸法季は守護所を小山から足利に時移転させています。しかし、法季は義政の遺児若犬丸の挙兵鎮圧に失敗して解任され、小山氏と同族の結城基光が下野守護に就任、やがて基光の次男泰朝が小山氏を再興して下野守護となる形となったため、守護所は小山へ戻されました。
 応永23(1416)年、鎌倉公方足利持氏によって関東管領を解任されていた上杉禅秀が持氏に反乱を起こし、翌年、幕府軍の追討を受けて滅亡しますが、4代将軍足利義持は、これを機に、将軍に反抗的だった鎌倉公方の権限削減を決意し、その一環として応永24(1417)年から足利荘を幕府直接管理下に置く事とし、管領細川氏や畠山氏の被官が幕府代官として足利荘に派遣される様になりました。
 しかし、これに反発した足利持氏は応永30(1423)年に管領畠山満家被官の幕府代官神保慶久(ジンボヨシヒサ)を京都に追い返して、足利荘を押領してしまいます。
 その後、永享3(1431)年に持氏と6代将軍足利義教との間で和議が成立し、関東管領上杉憲実が足利荘統治を行う事となったため、憲実は足利荘政所付近に足利学校を再興し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化(ノウゲ)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げました。「能化」とは校長の事ですが、江戸時代には庠主(ショウシュ)と呼ばれる様になったため、今日では快元を初代庠主と呼んでいます。この結果、足利学校は奥羽から琉球に至る全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれて行く事となったのです。
 その後、憲実は持氏と対立して関東管領を辞任、永享10(1438)年に持氏は憲実撃滅を目指して永享の乱を起こしますが、幕府追討軍に敗れた持氏は永享11(1439)年に自決に追い込まれました。
 やがて、持氏の遺児成氏(シゲウジ)が鎌倉公方となった文安4(1447)年に憲実は足利荘及び足利学校に対して三ヶ条の規定を定めています。この中で足利学校で教えるべき学問は三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴があります。従って、教育の中心は儒学であり、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学・医学等も教えられました。学費は無料で、学生は入学すると同時に僧籍に入りました。学寮は無く、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分達が食べるための菜園を営んでおり、構内には、菜園の他に薬草園も作られていました。
 享徳3(1455)年、鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠を謀殺しますが、在京していた憲忠の弟上杉房顕が兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定と合流して上野国平井城に拠り、享徳の乱が勃発します。幕府軍に鎌倉を占領された成氏は下総国古河へ逃れて古河公方と呼ばれる様になり、下総・下野・常陸の諸大名の支持を取り付けます。成氏は次男の義明を両崖山の足利城へ入れて足利荘の防備を固めようとしましたが、やがて上杉軍との争奪が繰り返される事となります。
 文正元(1466)年に至り、8代将軍足利義政は足利荘を関東管領上杉房顕の管轄と認定、上杉家重臣の長尾景人(ナガオカゲヒト)が代官として派遣されて足利荘入りし、足利学校背後の岩井山に勧濃(カンノウ)城を築いて本拠としました。以後、景人の系統は足利長尾氏と呼ばれる事となります。
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 岩井山城とも呼ばれる勧濃城は標高54.5m・比高20mの平山城で、東西250m・南北300m程度の三角形丘陵の最高地に本丸が築かれ、やや下がった南側に二の丸、その南東側に三の丸が築かれていました。
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 下野国に於ける唯一の上杉方拠点であった勧濃城は古河公方にとって目障りな存在であり、何度も攻防戦が繰り返される事になるため、景人は足利学校に戦禍が及ぶのを恐れて、応仁元(1467)年に学校を鑁阿寺近くの現在地へ移転させています。
 文明4(1472)年、古河公方軍との攻防戦の最中に長尾景人が28歳で死去すると、幼い定景が後を襲い、叔父の長尾房清の後見を受けましたが、文明7(1475)年に定景は死去、弟の景長が後継となって、やはり房清の後見を受けました。
 房清は、関東管領山内上杉顕定に反抗していた扇谷上杉定正と結んで顕定に叛く姿勢を見せたため、顕定軍が勧濃城を攻撃、山内・扇谷両上杉氏による長享の乱の契機となりました。
 扇谷上杉定正は古河公方足利政氏と同盟していましたが、明応3(1497)年に定正が落馬事故死したのを機に、足利政氏は山内上杉顕定側へ寝返り、この際に長尾房清も山内上杉側へ乗り変えています。このため房清は、永正元(1504)年に両上杉軍の大決戦が行われた武蔵国立河原(タチカワノハラ)合戦に山内上杉方で参戦しますが、戦死してしまいました。
 この結果、長尾景長が当主として自立する事となり、永正9(1512)年に居城を勧濃城から要害堅固な両崖山の足利城に移しています。この移動は軍事的な理由だけで無く、渡良瀬川の水害を避ける意味もありました。即ち、この頃から渡良瀬川本流は現在の矢場川の線から現流路へ移りつつあり、勧濃城の直下を渡良瀬川が流れる形になって、城下の町や農地が壊滅していたのです。
 足利城は両崖山頂に本丸、その北に二の丸と三の丸を配し、南東にも小曲輪群を持っており、西側の尾根にある砦とも連結された本格的な山城でした。
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 永正年間(1504〜21)の足利学校第4代庠主九天は医学の教授で有名になっており、足利城下には鑁阿寺・足利学校を中核とする城下町が形成される事となります。なお、長尾景長は狩野正信と親交を持った画家でもあり、彼が建立した長林寺には彼の自画像や、関東の代表的な水墨画家祥啓に倣った山水図が遺されています。
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 景長の子の憲長時代の足利は平和な状態が維持されましたが、享禄年間(1528〜32)に足利学校が火災で焼失してしまう事態が生じています。
 憲長の子の政長は、小田原の北条氏康の圧迫に屈して、一旦その傘下に入り、この時期に氏康の支援で足利学校の再建が実現しました。当時の第7代庠主九華は兵学の専門家でもあったため、学生数3000人と記録される盛況を迎え、足利学校出身者が兵学・易学等の実践的な学問を身に付けて戦国武将に仕えるケースも増える事となります。天文18(1549)年に来日したフランシスコ=ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられたのです。
 その後、関東管領に就任した越後の上杉謙信の関東進出が本格化すると、長尾政長は同じ長尾氏の誼で上杉方へ乗り換え、永禄5(1562)年には上野国舘林城を手に入れています。当時の長尾政長は上野国太田城の由良氏と同盟を結び、北関東一の有力大名となっていたため、足利城町も発展、渡良瀬川の流路が現在地に固定されたため、洪水で荒れ地となっていた城下東方の地が新田町として開発され、城下町が東方へ拡大した形になりました。
 永禄12(1569)年6月に謙信と氏康の間で越相同盟が締結した際、政長は上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たりましたが、直後の7月に死去し、由良氏から婿養子に迎えていた顕長が後を襲いました。
 元亀2(1571)年、北条氏康の死によって越相同盟が解消されると、長尾顕長は上杉方に立ちましたが、天正6(1578)年の謙信急死によって御館(オタテ)の乱が起きると、上杉方の勢力は関東から消え去ってしまいました。
 この結果、顕長は織田信長に接近する策を採り、天正10(1582)年3月に信長が武田勝頼を滅ぼして上野国を滝川一益へ与えると、長尾顕長は実兄の由良国繁と共に一益への臣従を誓いました。
 ところが、同年6月の本能寺の変で信長が横死すると、滝川一益は北条氏政に敗れて逐電してしまったため、顕長は孤立無援の状況となり、天正12(1584)年に北条軍が足利に迫ると、既に北条氏の傀儡となっていた古河公方足利義氏の勧めで降伏、北条氏政に臣従する事となりました。これによって長い伝統を持つ足利荘は名実共に終焉を迎える事となります。
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《続く》
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