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2022年12月23日21:00

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タモリという男

『笑っていいともexclamation』終了から9年弱の年月が経ち、ついに、『バイキングMORE』、そして『ポップUPexclamation』も、今日で打ち切りになりました。

長く私は日記内でも、あのお昼の時間帯は【いいともセレクション】のような番組をやれば確実に視聴率が取れると主張してきました。

だからこそ、他局に追随した情報番組なんてやらずに、バラエティーのフジテレビだからこそ、その王道を突っ走ってほしかったんですよ(^^;)

情報番組をやると、どうしても左派に偏る傾向になるだけに、そういうのは、赤坂や六本木の放送局に任せておいてもいんじゃないかと思ったんです(;^ω^)

私がイメージするのはこんな番組です。

フライングスタートが多い昨今、やはり番組の理想は正午スタートかなと(;´∀`)

番組冒頭は、歴代の「いいとも青年隊」のあのオーブニング映像からスタート。

そして、タタッタッタッタ…のあとにタモリさんが登場するシーンにかぶせて、伊藤利尋アナ(これはあくまでイメージボイス)が…

「さあ今日も始まりました、笑っていいともセレクション。今日は19〇〇年〇月〇日の放送分からです。では、ご覧ください(^^)/」

そして「当時の再放送」が始まるわけです。

まるまる再放送して、エンディングで「明日も見てくれるかなexclamation & questionいいともexclamation ×2」とやって終了です。

どうです?これだけでも実現したらワクワクゾワゾワしてきませんかね(;^ω^)

これを実現しただけでも視聴者10%前後はカタいと見ているんですよ。

少なくとも、他局の情報番組に追随するよりは、視聴率が獲れるのは確実だと思っていますから。

では、ここからが本題の『タモリという男』。

非常に長文ですので、お時間のあります時に是非あせあせ

内容自体は2012年5月。

タモリさんが『27時間テレビ』の司会に決まった時に書いたものです。

では、以下どうぞ。

■幼少期

 さて、まずは小さい頃からのお話。生まれたのは昭和20年(1945)。血液型はO型。出身地は福岡県福岡市南区市崎。3歳の頃に両親が離婚し、祖父母に育てられている。少年時代は「毎日、通行人ばかりを見ていた」という。この頃に、後の天才的な観察眼を養ったと思われる。

 そして、小学校一年生(6歳)の時に事件が起きる。倒れた電柱をタモリが興味本位で覗き込んだところ、飛び出していた針金が右目に刺さり、右目の視力が低下してしまう。これについては、特にコメントは見つからなかったが、ある種、達観したような吹っ切れたタモリの態度と幼年期の不運としか言えないこの事件は、関連性があるように私は思う。

 小学校時代のタモリは、「先生に指してもらえるように、わざと教室の外を見て、しっかりと授業を聞いていた」。というちょっとひねくれた少年だったが、やがてクラスメイトを笑わすことに目覚め、小学校の卒業式では漫才を披露している。

 中学時代には、意外なことに熱心に教会の日曜教室に通う。クリスチャンか? と思いきや、後に「徹子の部屋」に出演した時に、その理由を「牧師が面白かったから」と語っているのは、観察好きのタモリならでは。また、この頃に、祖父がゴルフブームを見越して『森田ゴルフ』を興すも、まだ時代より早すぎたのか、倒産する。その結果、森田家には無駄にゴルフセットが転がっている状態となる。現在は大のゴルフ好きとして知られるタモリだが、かつては「あんなミミカキの大きいの振り回して何が面白いんだ」と語っていたのは、この頃の記憶によるものだと思われる。

 その後、高校は県立の筑紫丘高校時代に進学。この頃、音楽に目覚める。また意外なことに高校時代には剣道で柳生新陰流居合二段を取得している。

 その後、大学受験を行うが、不合格となり、一年間の浪人生活を送る。当時、受験のために毎晩、外国語放送を聞いていた経験が、後のデタラメ外国語に繋がったと思われる。

■早稲田大学に入学

 昭和40年(1965)、一浪後に早稲田大学第二文学部西洋哲学科に見事に入学。早大モダンジャズ研究会に入る。ちなみにタモリのあだ名が生まれたのはこの頃。これは現在の業界用語の元ネタであるジャズ界の逆さま言葉から生まれたもの。

 現在もたまに披露するトランペットをジャズ研にて担当するが、下手すぎて挫折。しゃべりが上手いとの理由で同研究会の司会を担当する。

 入学後、ちょっとしたうっかりから授業料を友人に貸してしまい、気づいたら授業料未納で、1年で哲学科を除籍。

 しかし、それでもジャズ研究会の司会は続ける。この頃に当時の司会ぶりを、たまたま仕事で見ていた大橋巨泉に誉められている。当時から、タモリのしゃべりが一級品だったことを伝える貴重な証言である。

■福岡でのサラリーマン時代

 こうして大学除籍後も東京にいたタモリの元に一本の電話がなる。「仕事決めといたよ」母からだった。こうしてタモリは、福岡に連れ戻されてしまう。その決まった仕事とは朝日生命の保険外交員だった。意外なことにまじめに勤務し、結局、その仕事を3年間務める。また当時、同じ会社に勤めていた春子さんと交際を開始し、昭和45年(1970)、には25歳で結婚をしている。

 翌年、仕事を辞めて、旅行関係の会社に入るが、その会社がボウリング場経営もしていたため、そちらに配属、ボウリング場の支配人となる。しかし、その後、ボウリングブームが落ち目になると、その仕事も辞め、駐車場や喫茶店の責任者など転職を重ねる。

 ちなみに当時のタモリについて「福岡の喫茶店に面白い人がいる、って仲間の中で話題になっていた人が実はタモリさんだったんですよ」と同じ福岡出身の武田鉄矢が「いいとも」に出演した時に語っている。やはりタモリが普通に喫茶店で働いているわけはなかったのだろう。まさにタモリあるところに笑いあり、である。

※Sheepコメント
“家庭”でのタモさんに関しては、ほとんどがベールに包まれています。
『結婚してて奥さんはいるが、子供はいない』
『手料理が大好きで、芸能人を含む、自身の友人を頻繁に家に招いて振る舞う』
せいぜいこれくらいですあせあせ

■タモリ、人生で唯一の思い切った行動

 その頃のタモリは、すでに27歳。職を転々としていたが、結婚もしており、喫茶店の面白い店員として、このまま福岡で埋もれてしまうと思われた。ところが、ここで転機が訪れる。

 ある時、福岡に日本ジャズ界の天才・山下洋輔が公演で来ていた。彼の大ファンだったタモリは公演を見に行き、その後に彼らは絶対に打ち上げをやっているだろうと、宿泊しているホテルに入る。するとその中の一室のドアがわずかに開いており、室中から楽しそうな笑い声が聞こえる。

 ここが打ち上げ会場だと確信したタモリは、室内に飛び込んだ。

 ここからは、ちょっと長くなるが、山下洋輔著の『ピアノ弾き翔んだ』から引用しようと思う。その前にちょっと説明。この部屋にはこの時、中村誠一という当時のバンドメンバーがいた。彼は、「デタラメ朝鮮語」や「フリー落語」などを得意とする、仲間の人気者であった。山下洋輔は、「私とタモリの出会いという形で色々なところで話したり、書いたりしたが、実はあれはタモリと中村誠一の出会いだった」と語っている。さて、その出会いというのを、改めて引用してみたいと思う。

 「その晩、ホテルの一室で中村はユカタ姿で踊り、私と森山はデタラメ三味線と長唄をやっていた。〜中略〜出し物が最高潮に達した時、一人の見知らぬ男が踊りながら入って来たのだ。一同驚きながらも続けるうちに、この男は中村のかぶっているカブリモノ(それは藤椅子の底が抜けたものだった)を取り上げてしまった。それを自分がかぶり、あるいはツヅミのように小脇に抱えてたくみに舞った。それは我々の知る中村の踊りよりもさらに一段と磨きがかかったものに見えた。この時になって我にかえった中村は、大声で男の無礼を咎めた。デタラメの朝鮮語だ。
『タレチョネン イリキテカ スミダ』
すると我々も予想もしなかったことが起こった。男がやはり同じ言葉で、しかも、どう聴いても三倍は流暢に返事をしたのだ。
『ヨギメン ハッソゲネン パンチョゲネン パンビタン ピロビタン ウリチゲネンナ ゴスミダ』
 後に二人は『ヨギメン友達』と呼び合うが、その記念すべき最初の会話はこうしてなされたのである。」

 以上のようにタモリは衝撃的な登場をする。そして、その後も一同かつて見たことない芸の数々に笑い転げる。やがて散々楽しみ、気づけば朝になっていた。そして打ち上げもお開きになる頃、ようやく「あいつは誰だ?」となり、名前を聞かれたタモリは「モリタです」とだけ言ってその場を去る。そんな格好いい去り方をしたタモリだが、その後も九州で山下洋輔の公演があるたびに、どこからともなく打ち上げに現れ、芸を披露し続けていた。

■タモリ上京

 そして、いよいよタモリが上京する。

 ここからは、当時、山下洋輔と交友のあった音楽評論家の相倉久人氏(専門学校時代の私の担任)の証言を引用しよう。

 「それで福岡から帰ってきた山下洋輔が、当時の僕らのたまり場だった「ジャックの豆の木」で『福岡にすごい面白い奴がいた』という話をしたんだよ。そしたら、その店にいた奴らが『ぜひ見たい』ということになって、みんなで旅費を出し合って、福岡からタモリを呼んだんだ」。こうしてタモリは大学時代以来の上京を果たす。早速、「ジャックの豆の木」にやってきたタモリに店の常連客は次々と注文を出す。当時の常連客とは筒井康隆、赤塚不二夫など、すごい面子が揃っていた。その場に居合わせた相倉氏は、初めて見たタモリの印象をこう語る。

 「とにかく笑いに対しての反射神経が抜群だった。もともとジャズはアドリブが多いから、それで鍛えたのかも知れないけどね。例えば、物まねをしている時に横から筒井さんが『そこで雨が降ってきた』と言うと、ちゃんとそれに合わせた物まねをする。それも本当にその人が言いそうなことを言う。どんな難しいリクエストにも即興で答える。あれにはみんな驚いたね。まぁとにかく笑ったよ」。

 そして、行くところのないタモリに対して、すっかりタモリを気に入った赤塚不二夫が「おまえ、うちに居候しろ!」と言い、その一言でタモリの東京での居候生活が始まる。ちなみにこれが現在も仲の良いタモリと赤塚不二夫の交友の始まりであった。

 こうして赤塚家に居候したタモリだが、居候と言うよりは、赤塚を追い出して、赤塚の家にタモリが住んでいた状態だった。追い出された赤塚は事務所でロッカーを倒し、ベッド代わりに寝ている生活をしていたという。一方、タモリは、赤塚の家でやりたい放題。なにしろ冷蔵庫にはいつでもハイネケンがびっしりと入っており、ベンツも乗り放題。たまに赤塚が家に帰ると、たくさんのタモリの友人が集まっており、中から赤塚の服を勝手に着たタモリが出てくる始末だったという。

 またその後、福岡にいた春子夫人も東京へ呼ばれ、ともに赤塚の家で居候生活を送っている。この時期のタモリは当然、仕事はしてない。果たしてこんな奴はかつていただろうか? 当時のタモリはそろそろ30歳になるか、ならないかである。「芸能人のおもちゃ」として、働かずに芸を披露する毎日。「私の人生は流れに任せただけ」というタモリだが、妻もいるのに将来に不安を抱えるでもなく、遊びほうけるだけ。この時、将来の保証など何一つないにも関わらずだ。しかし、結果として、この時代がなければ、現在のタモリは存在しなかった。つまり、タモリの一番の非凡さは、将来について、こだわらない、考えない、という徹底した、適当さにある。と断言できる。

 そうして優雅な生活を送っていたタモリだが、毎晩「ジャックの豆の木」では、数々の伝説の密室芸を披露していた。なぜ密室芸なのかというと、それは当然、外では見せられない芸だからだ。例えば、有名な「イグアナ」を全裸でやるなど、想像するだけで気が滅入るようなことを楽しそうにやっていた。また「あの頃、赤塚不二夫と全裸で店を移動とかもしていたな」とは、前述の相倉氏の談。

 その他にいわゆるタブーネタも得意としており、当時の天皇の物まねも得意だった。それについてはこんなエピソードもある。ある日の筒井康隆の出版記念パーティーの席で、タモリが壇上で挨拶をすることになった。その時にバックで音楽を担当していた面子もみんなタモリのことをよく知っていたので、タモリがしゃべっている途中から曲を「君が代」に切り替えた。するとタモリは急に天皇の物まねで挨拶を始めた。会場は爆笑に包まれ、筒井氏も一緒に笑っていたが、自分のパーティーで天皇の物まねをしたことが噂になると大変だ、と気づいた筒井氏が次第に青ざめて止めたそうだ。また天皇と言えばこんな話もある。

■天皇の物まねで宮内庁に電話!?

 これは確かな情報ではないが、こんな逸話もある。ある時、タモリが、宮内庁に電話をし「天皇に話しがあるのでつないでください」と言ったという。すると当然のように断られ、電話を切られてしまった。そこでタモリは即座にかけ直し、天皇の物まねをしながら「今、私に電話がかかってこなかったかね」と言ったという。結果はもちろんすぐ切られたそうであるが、タモリの悪ふざけに不可侵はないってことが良く分かるエピソードである。

■いよいよテレビデビュー

 その後もタモリは毎晩、密室芸を披露しており、次第に業界関係者の間でも話題となる。

 そして、ついに昭和51年(1976)、テレビ東京の『モンティ・パイソン』でテレビデビューを果たす。実にタモリ31歳の時であった。また同年には『オールナイトニッポン』のラジオパーソナリティにも抜擢されている。

※Sheepコメント
タモさんのテレビデビューは1976年。かなりの“遅咲き”でした。
ちなみにたけしさんは1972年。さんまさんは1974年のデビューですが、タモさん自身はたけしさんを「たけちゃん」。さんまさんは「さんちゃん」と呼んでいます。しかし、芸歴の関係もあり、さんまさんがタモさんに対し、『ホンマはさんま兄さんと呼ばなあかんねんでexclamation』と“諭して”いた事もありました。

■笑っていいともがスタート

 その後も『今夜は最高!』などの番組で独特のキャラクターを発揮し続けたタモリだが、あくまで「深夜番組のタモリ」として、下ネタを連発し、女性からは忌み嫌われる存在だった。

 そんなタモリがなんとお昼の番組に抜擢される。その理由を当時の番組プロデューサー横沢氏は「確かにタモリに昼の番組が勤まるのかという意見はあった。しかし、タモリは頭が切れるし、アドリブが利く。これはタモリの哲学なんだろうけど、適当であるというところ。こういう番組ではそれが大事だった。だからタモリに決めた」と語る。逆にタモリ本人が「俺なんかが昼の番組やっていいのか?」とビビっていた。そんなタモリに横沢プロデューサーは「とにかく自然体でやれ」と言ったという。

 当初、タモリは「3ヶ月で終わる」と思っていたが、結局、ギネスにも載る長者番組となる。これについて前述の横沢氏は、「まず番組は作る人が飽きる。次に出演者が飽きる。そして視聴者が飽きる。だからタモリには、仕事できているとは思わないで、遊びに来ていると思っていくれと言っていた」と語っている。そしてタモリも「仕事は楽しいよ。楽しいから仕事なんて言ったら、ちゃんと働いている人に失礼だから仕事と思ってない」と言っている。

 ちなみに、この年にはもう一つの長寿番組「タモリ倶楽部」もスタートしている。

 その後の活躍はみなさんもご存じの通り、やがて国民的アイドルへと登りつめていき、今だその地位は揺るがない。

※Sheepコメント
これもタモさんが語っていた事がありました。
「深夜番組のタモリ」が定着していた中での『いいとも』への大抜擢。
タモさん曰く、「今で言うと、江頭がお昼の司会になったようなもんだよ」とあせあせ

当初『「いいとも」は3ヵ月で終わる』というのがまことしやかにささやかれたのもあり、番組が『第100回』を迎えた時には、番組内で表彰されたくらいでした。
その場でのタモさんのコメントが…
「これから500回、1000回と頑張って参りますexclamation ×2」と高らかに言い放ったのですあせあせ
スタジオの観客席からは失笑にも似た笑いが起きましたが、まさかその番組が『7000回超』『30年』続く事になろうとは、その場の誰が想像したでしょうかあせあせ

『いいとも』がスタートした同じ週の金曜日。「タモリ倶楽部」もスタート。同じくこの10月で『放送30年』を迎えますぴかぴか(新しい)

■おまけ〜カツラ疑惑について

 ここまで紹介したついでに、タモリのカツラ疑惑についても語ってみたいと思う。今回の紹介にあたり、改めて昔のタモリの資料の写真を見ると、明らかに地肌が見えるほど髪が薄い。これを見る限りタモリのカツラ疑惑は疑う余地がないと思える。

 これについて前述の相倉氏は「本人に聞いたわけではなく、あくまで予想」と前置きしてこう語る。「あれはカツラじゃなくて植毛。むかしタモリが船の事故で怪我して頭に包帯を巻いた時に植えたね。あの時に記者会見をしたんだけど、間違いなく髪の毛が増えていた。あれは上手いタイミングだったな」と言っている。ちなみに週刊誌の図書館として有名な八幡山にある「大宅壮一文庫」で、タモリを検索すると『週間宝石』の記事で、『タモリのカツラ疑惑は本当か? 本誌記者がタモリの髪を引っ張ってみた!』という記事が出てくる。そこでは本当に髪を触り、引っ張ってみたところ、ズラでなかったと書いてあった。

 いずれにしても真意のほどは明らかではない。ちなみに私は相倉氏の意見に賛成で、タモリは植毛だと思っている。

※Sheepコメント
『タモリはカツラかexclamation & question』というのは、長年“騒がれている”ものですが…
これもタモさんとさんまさんが『いいとも』の中で“やらかして”いましたあせあせ
さんまさんがレギュラー当時の金曜日のトークコーナーでの事。
タモさんがさんまさんに『じゃあ触ってみろよ』と焚き付け、触ろうとしたさんまさんが『やっぱり触れんふらふら』と逃げちゃったんですね(苦笑)
当時の週刊誌で『やっぱりタモリはカツラかexclamation & question』とかなり騒がれる結果となりましたあせあせ

■まとめ

 以上、タモリのプロフィール、いかがだっただろうか。未だにかつてのタモリを知る人は、密室芸時代のタモリこそ、本当のタモリだと語る。山下洋輔氏はテレビのタモリを「必殺技の出せないウルトラマン」と表現してるが、ほとんどがテレビでできないような芸をやっていたのが、かつてのタモリの伝説の密室芸だった。現在もたまに気まぐれで見ることができる、デタラメ外国語は、イタリア大使館で披露したら、通じちゃった、という嘘のようなエピソードまであるから驚きだ。

※Sheepコメント
在りし日の『今夜は最高』や、1980年代の『いいとも』を見ていると、当時のタモさんが“珍獣”だという事がよく分かりますあせあせ

タモさんの密室芸…
これはwikiから引用します。

デビュー当時の芸を「密室芸」と称し、「中洲産業大学芸術学部・西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」「イグアナのモノマネ」「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語(北朝鮮のアナウンサー)やベトナム語も取り上げている。

特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前「喋る内容や論理の組み立て方が〈自分と〉同じである」と語っていた)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。

こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。他では田中角栄、大橋巨泉、永六輔、横井庄一、浦辺粂子、久米明、安藤忠雄など他多数存在する。このタモリの密室芸は、『徹子の部屋』の年末のゲスト出演で、黒柳との打ち合わせ(練習)もなく本番、一発勝負で披露している。筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物とまったく同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評する。

モノマネでは他に、麻生太郎(衆議院議員・元内閣総理大臣)の口と声マネ、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶、石原良純、おすぎ&ピーコ、三宅裕司、横山弁護士、GACKT、DAIGO、ボビー・オロゴン、渡部陽一、コカドケンタロウ(ロッチ)のアゴまね、生まれたての子馬、ハゲタカの着地、バグパイプ、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、トロを食う男、ハエ、ハイエナ、コンドルの着地など、多彩なレパートリーがある。

※コメントに戻ります。
かつては『いいとも』の中で『スーパー記憶術』なんてものを披露していた時期もありました。
100コ近くの関連性のない物の名前などを書き連ねて、それをその場でタモさんが覚え、暗誦するというもの。
時代の流れで“アンチ”が増えたのもあり、最近では見られなくなった芸の一つです冷や汗

あの黒柳徹子さんも、タモさんの芸を見出(みいだ)した1人で、『いいとも』がスタートする5年前の1977年に『徹子の部屋』に出演。
以来、毎年年末に出演するようになりました。

と、ココまでですあせあせ(飛び散る汗)
あくまでここまでのは、2012年5月当時に書いたものですのであしからず(^_^;)

ここまでホントにきちんと読んで下さった方がいましたら感謝ですあせあせ(飛び散る汗)

そんなタモリさんも、来週28日の『徹子の部屋』年内最終日の放送に出演されますからね(#^.^#)
https://news.yahoo.co.jp/articles/99d64395cb66d94b5ac34d9a5e93f2e2227b1663

1982年の『笑っていいともexclamation』放送開始前の、1977年から2013年まで、37年連続でずっと…

『年末最終日』に『徹子の部屋』に出演されていて、昨年2021年に8年ぶりに年末に出演されて以来、2年連続のご出演となるわけですから(;^ω^)

これを機に、また毎年年末の締めくくりの『徹子の部屋』は、やはりタモリさんで締めたいものですよ(^▽^)/
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