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2022年12月15日23:17

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ノートの写し398

〇既にみてきたように、人間の意識は低いレベルにあり、構造は徐々にではあるが着々と最後に残っている意識性のかけらまでさらに引き下げるための手を打ってくるだろう。構造が完全に勝利するためには、全ての構成員たちを一つの情報空間にまとめる必要があるのであるが、それは現在、急速かつ着実に推し進められている。おそそらく自分をすっかり封じ込めてしまうには、ほんのわずかな煉瓦を壁に積み足すだけでよいのだろう。
 では、いったいどうすればよいのだろうか。何しろ、文明の利器を利用すれば、「放し飼い」状態に置かれてしまう。文明化から逃げ出し、自然に囲まれた共同体に移り住もうとする人々もいる。彼らの試みがどれほどうまくいっているかについては、判断を避けたい。どのみち、現代人が文明社会と完全に縁を断つことなど、不可能なのである。そのような生活に適応できないのだから。しかしながら、あらゆる有害な文明の産物を最小限に抑え、それらを自然からの恵みと置き換えてやることは意味のあることである。
 例えば、庭や菜園のある土地に居を構えるというのがある。現代文明と言う砂漠の中にある生きた自然と言うこうしたオアシスの優れている点は、規則や基準を定めるのが構造ではなく、その土地の主だという事にある。気に入らないのに畝を耕す必要は全くない。だれにでも自分の生き方を自分で決める事由があるべきである。すべてをアスファルトで覆いたければ覆えばよいし、荒れ放題の無秩序の中で自然のなすが間にしておきたいのならそうすればよい。 
 では、都会暮らしを続けざるを得ない人にとってはどうかというと、別の手がある。自然食品だけを摂取する生活に移行するという事である。そのためにも、構造内で育て上げられ、スーパーマーケットで売られている見栄えのするリンゴが、本質的にその構造に「れっきとした」構成員にふさわしく、そうした食物はさまざまな病気の原因になるのだという事を、まずは目を覚まして認識すべきである。
 一般に、道は多数あり、だれもが自分のために自分の道を選ぶ。私にとっての手本示してくれたのは、「拝謁の光栄に浴す」こととなった野良猫である。
 私は友人たちとともに、文明の恩恵から離れて休息するべく、森へ出かけ、焚火を囲んで料理を作る事が好きだった。ある日のこと、丸々と太った猫がうまそうな匂いに誘われて、私たちのいる場所にやって来た。どうやらこの猫はかつて人間に飼われて遺たようだが、その後、何らかの事情で森にすむ事になり、野生化したものらしかった。大きさからさし計ると、この毛足の長い無頼漢は、鳥やネズミなどを巧みに捕まえているようだった。いや、こんな猫ならウサギでも仕留められることだろう。私たちの料理を分けてやったら、猫は遠慮しなかったが、余計な礼儀は省き、分け前を口にくわえると、一目散に走り去った。
 その後も、私たちは一度ならずこのネコと森で出会った。髭もじゃのネコはごちそうされるのが嫌いでは無かったが、私たちがなれなれしく接するのは許さなかった。まさしくこの猫は本物の事象選択であった。彼は真の自由というものの味を知り、文明と時折接触するとは拒まなかったものの、自分の独立性をいかなるものとも引き換える気はなかった。
 依存することなしに文明の利器を利用することは可能である。群れから自由な人格を分け離してくれるのは意識性である。ただ目を覚まし、回りで何が起こっているかを自覚するだけでよい。そんなわけで、私はそうしたすべての事を知ることができたから、あなたに話しているわけである。なぜならば…。そもそもこれは秘密なのである。しかし、親愛なる読者のあなたには教えてあげよう。実は、私は野生化した人間である。私は農場から逃げ出してきたのである。
 これまで、どのようにしてコマから自由になり、その影響に屈しないようにするかについて考察してきた。それでは、コマから何らかの利益を得られないだろうか。一般的に言うと、どんな夢でも結局はコマたちの助けによって実現されるという事になる。なにしろ私たちはみな何らかの構造の中で暮らし、働いており、この事実からは逃げ出すことができない。要は、構造が夢を奪うのではなく、その実現を助けてくれればよいのである。
 では、コマに直接作用する何らかの方法はあるだろうか。どう見てもなさそうである。コマを手なずけることは無理な相談であり、コントロールする事も不可能である。しかし、それでも自分の利益のためにコマの特性を利用することができるのである。
 なぜ人が仲間たちと食卓を囲んで乾杯するのか、あなたにとっては思いもよらないことだろうか。そこには何か実際に役立つ意味があるだろうか、それとも、純粋に印象的な儀式に過ぎないのだろうか。実は、決して理由のないことではないのである。時折、人々の知恵は、無意味な迷信に似た慣習や決まりを生み出すものである。しかし、人々は、そのような慣習や決まりがリアリティを操縦するためのある種のやり方であることを疑わず、古くからあるそうしたことに無意識に従っている。
 既にみてきたように、アルコール飲料の摂取はエネルギーを借り入れることである。自由エネルギーの追加補給を受け一段階分上昇する。これは意思のエネルギーに他ならないため、意思がどこに向けられているかに応じて、しかるべき結果が得られることになる。
 例えば、やけ酒を飲むと、リアリティは益々真っ暗な穴の中に落ちていく、祝杯を挙げると、喜びの理由も増える。不安や恐怖という感情とともに杯を傾けると、人生が本当に何かを心配する方向へと暗転する。その他あらゆるケースで同じことがいえる。
 エネルギーの高まりによって強化された思考放射は、それにふさわしい質を備えた人生ラインへと人を移動させる。クレジットを提供したコマは、意図のエネルギーの増幅器としての役割を果たしている。コマそのものは、それがどれほど揺れ動こうが、魂の意図にアクセスすることはできない。そのため、亜空間にあるセクターを物質化させる能力はない。リアリティは生物の身から影響を受ける。そんなわけで、人が乾杯するときは、自分の意図の方向性を固定していることになる。何が起こっているか、理解されただろうか。

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