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2022年12月10日22:32

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ノートの写し396

〇なんと不思議なことだろうか…。わかりきっているのに、不思議なことにも思える。栽培植物や家庭のペットと動物がかつては野生であり、自然の中で独力で存在していた。ところが、人間が「目覚め」それらを自分の管理下に置くとができると認識したのである。動植物が無意識の夢見状態にあるのに対し、人間は、まさに意識性のおかげで、動植物の上に君臨し、自分たちのためにそれらを利用することが可能となった。そのためには、奴隷化された者たちがどこでどのようにして存在すべきかを定める行動を作り上げる必要があった。
 動物や植物の目的…そうした目的は疑問の余地なく存在する・・・・が、どのようなものであるにせよ、構造の秩序性はそうした目的を無意味なものにした。人間の観点からは、年下の兄弟である動植物の命の目的は、人間の食事と繁殖という原始的な欲求に記する。しかしながら、もしこの「最高の」生き物が本当にそう考えるのであれば、人間の完璧と言われている理性がむしろ原始的なレベルにとどまっていることの証である。
 本当は、どんな生き物にも自分の目的があるのである。それにしても、どうしてそうなっているのか。なぜだろう? なぜならば、目的達成のプロセスが進化の原動力であるからである。
 この問題にはまたあとで戻ろうと思うが、今は次の事実を確認するに留めよう。生き物の真の目的は、たとえそれがどのようなものであろうとも、その生き物が生息する自然環境の中でしか達成することができない、という事である。どのような構造でも、各構成員の目的を構造の利益に従わせる。飼いならされた、あるいは「秩序化された」動植物の発展は、それらのために人間が定めた方向へと進む。結果として、構造の構成員はより深く眠りこみ、最終的には自分たちの真の目的についてのイメージを失ってしまう。
 野生の動植物の生活はずっと豊かで意識的である。野生のシカを例に取ろう。心配事は山ほどある。猛獣から身を守る問題もあれば、子供たちの躾け、食べ物探し、家族関係、上下関係などの問題もあれば、それに、ただ人生を満喫するという問題も含まれてくる。
 農場という構造にいる牛の群れの生活はずっと貧しい。人間が、安全な寝床と食べ物を確保してやる事で、牛たちから一連の問題を取り除いたのである。しかし、その代わりに、彼らを飼い主に自分の目的を譲渡さざるを得ず、なぜ、どのように、どのくらい牛たちが生きるかを決めるのは、今や飼い主側となった。これは、人間が「悪魔に魂を売り渡した」場合とそっくりではなかろうか。では、人間の場合はどうだろうか。構造を作り上げることで、人間自身がその奴隷になるというのが現実である。人間は自分を見失い、自分が何者で、何を欲するのか、理解してみようとすることを止める。人間のあらゆる活動は、結局のところ、様々な商品の生産や売買に帰結する。あらゆる行動の中枢には、コマが上部構造のように君臨している。コマたちは商品自体に興味がないのに、構造は大変活発に発達する。なぜそうなるのか。
 実は、やり取りされる主な商品となっているのがエネルギーなのである。人間は自分の喜びや慰めのために物を買う。そうではなかろうか。喜びや慰めをもたらすものと並んで、他者に不快感をもたらす使命を帯びたものも存在する。そして、いずれの場合も、ポジティブあるいはネガティブなエネルギーが放出される。これこそがコマにとって必要とされるものなのである。
 御覧のように、形あるものそれ自体の生産や流通が決してすべてなのでは無い。売買されるのは、何をおいてもまず第一にエネルギーなのである。そして、このエネルギー市場をコントロールしているのがコマたちである。エネルギーの少量が人間に与えられ、大半はコマたちに与えられる。千草をもらうものもいれば、ミルクをもらうものもいる、というわけである。
 エネルギー市場では、金融市場にも似たオペレーションさえ行われている。例えば、アルコールである。これは純粋な意味でのエネルギーである。人はアルコールを飲むことで、エネルギーを借りる。アルコールによる陶酔は借金する事であり、二日酔い症状は利子をつけて借金を返済することである。いつも返済するときの方が多くなる。コマたちは決してただでエネルギーを恵んでくれたりはしない。
 少量のアルコール分が入った飲み物はリラックスさせてくれる。コマはエネルギーを少しずつ吸収する。逆に、強い飲み物は「酒を飲め、歌を歌え」というようにエネルギーがこみあげてくる充実感をもたらす。ところで、コマはこのエネルギーを高金利で貸し付けているのである。まもなく調子が怪しくなってくる。「歌を飲め、酒を歌え」。大きな効用間の後には、奈落の底への急降下が待っている。興奮が強ければ強いほど、それに続く落胆ぶりも激しい。
 二日酔いになる主な原因は、臓器への生理学的打撃ではなく、コマが人間の自由エネルギーをしきりに組みだすことにある。こうなると、のたうち回るか、迎え酒をするかしか無くなる。ふたたびコマが人間にエネルギーを貸し付けることもあり得る。慌てて取り立てる必要はない。借金の返済日は遅かれ早かれら確実にやってくる。バーテン相手なら、感情をすまさずに飲み逃げするのは可能かもしれないが、コマが相手ではそうはいかない。自分の「債務」が大きくなれば大きくなるほど、その返済も厳しいものとなる。
 このような状況では、債務者の自由エネルギーは完全にコマの思うがままとなる。人は、自分のエネルギー身体の心臓部チャクラのあたりを、だれかに文字通り鋭い爪のついて手でひっつかまれるように感じる。もっと借金をするか、それとも、拷問を続けてほしいか、とコマは条件を突き付けてくる。人間の意思とは、実をいうと、その人の自己エネルギーが貸し付けられるが、そのために益々過酷な取り立てが避けられなくなる。心臓が停止してしまうことだってしばしば起こる。コマが人間をそっとしおいてくれるのは、それ以上奪うものがなくなってしまった場合に限る。そして、もし生き延びることができたなら、それは単に不幸中の幸いであっただけの話である。
 一番初めのクレジットは、プレゼントのように恵み豊かで晴れがましい。ご存じのように、人生最初の一杯目の酒は非常に思い出深いものであり、その後、貝を重ねるごとに、感覚が鈍くなってくる、とまでは言わなくとも、ここ強さは次第に減退する。コマは自分の網へとおびき寄せたい一心で、「財布のひもを緩める」。その一方で、借金の取り立て初音に無慈悲に情け容赦なく行われる。だから、このような類の借金をしたら、意識性を特別高いレベルに維持し、自分の「支払い能力」を自覚しておくべきである。
 酩酊したホームレスたちというのは、決して一般に考えられているような堕落した人々ではない。こうした風な人々は、自分の力を効力せず、手遅れにならないうちに思い切って借金の返済をしておこうとしなかっただけないのである。だから今日まで借金して暮らしているわけである。ローンを何度も受け、その都度に返済がどんどんつらくなって行く。だが、そもそもの始まりは心躍る宴席であった。転落のプロセスは知らず知らずのうちに速度を増すが、どうすることもできず。その後、雪崩のようになる。誘導移転の本質は非常に狡猾であり、だれもが漏斗に引きずり込まれかねない。
 一般的に言うと、強烈な悩み、すなわちエネルギー消費の大きい悩みに関係するものの全ては有害な執着であり、それら全でがコマたちからのクレジットなのである。なぜ有害なのか。なぜならコマたちは本質的に攻撃的であり、争うごとにエネルギーを増大させようとする傾向を持つからである。魅力的だが有害なものの全ては、人間にとって早晩悪い結果に終わる。害が大きければ大きいほど、ネガティブなエネルギーが多量に放出される。ポジティブなエネルギーは決してそんなにたくさんは放出されない。

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