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2022年11月21日23:44

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【映画】『ディア・ハンター』43年経ってようやく理解できたラヴストーリー

昔繰り返し見た映画。今見直しても、細部の描写までよく覚えていることに自分で驚いた。かつて何度も見たのは「好きな映画で大きな魅力があったから」であると同時に、実は「何度見ても理解できない部分があったから」という点も大きかったのだが、今回の鑑賞でその部分にある程度決着がついた。
ズバリ「何度見ても分からない部分は、物語が破綻していたり単なるご都合主義だったりするから」であり、勢いだけの力業で押し切った強引な作品だというのが結論。決して出来の良い映画ではない。
 
ただし、かつては分からなかった部分に合理的な説明がついたところもあり、以下それについて書く。
 
最初に驚いたのは、ビリングの2番目がジョン・カザールで、1枚看板で出る俳優はロバー・デニーロとカザールの2人だけということ。誰が見ても準主役のクリストファー・ウォーケンとメリル・ストリープは当時まだ無名だったので、その後に数人まとめて出てくる。これはどうしても書いておきたかった余談。
 
以下本題。本編に入って驚かされたのは、今は「怪優」の風格を漂わせるクリストファー・ウォーケンが、実にピチピチした可愛らしいイケメンであること。クイーンのロジャー・テイラーによく似た、西洋イケメンの典型的な顔の1つであることが今になって分かる。

かつては気づかなかったウォーケンの男の色気を理解できるようになって、やって分かったことがある。この物語の謎を解く最大の鍵は、「マイケル(ロバート・デニーロ)はニック(クリストファー・ウォーケン)に恋をしている」という点だ。これが昔見た時は分からなかった。

まず、あの友人たちの中でも、マイケルはニックを別格的な存在とみなし「狩りはお前とでなけりゃダメだ」と言っている。ヘテロで純真無垢な少年は、それを男同士の深い友情だと思っていたが、ウォーケンのピチピチした色気を理解できるようになると、この関係はそういうレベルではなさそうだと分かってくる。

実際スタン(ジョン・カザール)はマイケル二対して「こいつ、女を紹介したのに何もしようとしない。何を考えてるのか分からない奴だ。お前はホモか!」となじっている(ホモって言葉も久しぶりに聞いたな)。それは馬鹿友達同士の馬鹿騒ぎのように描かれているが、実は冗談ではなく、まさにその通りなのではないのか。

さて、そこで問題となる重要な要素がリンダ(メリル・ストリープ)だ。若い頃のメリルは何とまあ初々しくて可愛いことか…というのはどうしても書いておきたかった余談。実は、かつて本作で最もよく分からなかった部分の1つが、マイケルの彼女に対する心理だ。

ここが実に巧みと言うか厄介なミスリードで、「マイケルもリンダに思いを寄せているが、親友のカノジョなので、その気持ちを表せずにいる」という風にも読めるように作られている。と言うか、ほとんどの人がそう思っている。かつての私もそうだったが、その解釈だと、あちこちにぎこちない部分が多すぎるのだ。

以下、分かりやすく、こう分けよう。
第1幕=マイケルたちがベトナムへ行く前(結婚式と狩り)
第2幕=ベトナムでの地獄体験
第3幕=マイケルがベトナムから帰還した後
第4幕=マイケルがニックを連れ戻すため再びベトナムへ
エピローグ

第1幕で、マイケルがニックと踊るリンダを見つめ、それを意識するリンダの視線が交錯する。これは前に書いたような一般的解釈にそのまま当てはまるように見える。しかし「愛するニックがリンダと踊っているのを表面的にはにこやかに、内面では複雑な思い(嫉妬も含む)で見つめるマイケル」とも見える。
一方のリンダは、「マイケルの思いがニックにあることを知らず、自分に気があると勘違いしている。彼女もマイケルを憎からず思っているので、複雑な気持ちでつい彼に目をやってしまう」もしくは「薄々ながらマイケルの真意を見抜いている」とも受け取れる。
 
大きなミスリードがあるのは第2幕で、ニックとマイケルの2人が全く同じリンダの写真を財布に入れている。これを見れば「マイケルもリンダに密かに恋している」と考える方が普通だ。
しかし全体の流れでみると、これは心理学で言う「同一視」ではないのか。つまりマイケルは、ニックがその写真を持っているのを知っていて、「まったく同じ写真をまったく同じように財布に入れる」ことで、自分とニックを同一視しようとする愛の行為ではないのか。たとえば自分が好きな相手(アイドルなどでもいい)が愛用しているもの、読んでいる本、聞いている音楽などを、自分も同じように体験し、それを好きになろうとする行為は、ほとんど誰でもやったことがあるのではなかろうか。それと同じことだ。
少なくとも私が監督で、通常の解釈通りの描写をするなら、二人には別々の写真を持たせる。それによって二人がリンダの違った側面をそれぞれに愛しているという描写もできるし、まったく同じ写真にしてしまうと別の意味が出てしまうからだ。
そう、これは演出として、まさしく「別の意味」を出したかったからこそ同じ写真にしたのではないか?
 
そしてマイケル帰還後の第3幕。ここでマイケルとリンダが結ばれたように見えるのだが、以前からこの心理プロセスがよく理解できなかったし、不自然な描写も多い。そこで上記の仮説を基に考えてみよう。するとマイケルがリンダに近づくのは、愛するニックとのつながりを求めてのこと、一種の代償行為として理解できる。
マイケルの方は実はそれ以上のものを求めていないのに、むしろリンダの方が積極的になる。リンダも、ニックを失った心の穴、同じ喪失感を抱えたマイケルで埋めようとするわけで、心理的には似ているが、彼女の場合そこに男と女としての性愛が入ってくる。一方マイケルはそこに関心が無いのが大きな違いだ。
だから最初に2人がベッドに入るときも、リンダが無理矢理押しかけてという形だ。しかもこの時、シャワーを浴びてやる気満々のリンダに対し、マイケルは制服を着たまま寝ている。描写的には、この時2人は結ばれなかったと見る方が自然だ。ベトナム出征前からマイケルがリンダに思いを寄せていたのであれば、それはさすがに不自然ではないか?
2人のベッドシーンは2回あり、もう一度は最初こそリンダが積極的だが、マイケルも穏やかに(あくまでも穏やかに)それに応じる。以前から思いを寄せていた女性とついに…という深い思いは伝わってこないないが、ともかく肉体的には結ばれたようなので、ここまでの仮説は深読みし過ぎだったのか?と一瞬思う。
しかし…だ。そのすぐ後、マイケルは寝ているリンダを残し、公衆電話から病院のスティーヴンに電話をかける。以前に一度かけようとしてためらい、やめてしまったのに、何故よりにもよってこのタイミングで電話? 私には「情にほだされて心ならずも女を抱いてしまったが、その穢れを洗い流すため、ニックを知るもう1人の戦友(男)に電話をせずにはいられなかった」という風に見えるのだが、他に何か解釈があるだろうか?
 
そしてクライマックスとなる第4幕。ここでのマイケルの行動は狂気に満ちたもので、何度見てもニックのためにそこまで無茶な行動を取れる心理がよく理解できなかった。今見直せば、話をドラマチックにするためのご都合主義や無理矢理な設定は明らかで、理解できないのも当然だと思う。
しかし逆に理解できた部分もある。ここでのマイケルの行動は、単なる友情に基づくものではない。それは文字通り「命懸けの愛」。ここでニックのために死んでもいいくらいに思っているのであれば、あの狂気も少しは理解できる。
マイケルの行動に「リンダのために生きて帰りたい」という思いなど微塵も見られない。リンダに、友人としての思いや「同じ男を愛した者同士の連帯感」こそ抱いていても、男女の深い愛は存在しないのだから当然だ。
そしてマイケルはついにニックと再会してロシアンルーレットをやることになる。それをやることでニックを救えないことは明らかであり、これはすでに書いたように「話をドラマチックにするためのご都合主義や無理矢理な設定」そのものだ。
しかしこれを心中にも近い愛の行為として見ればどうだろう。マイケルとニックが、この世で互いを最も必要とし唯一無二の存在と感じたのが、第2幕でベトコンに強要されたロシアンルーレットの場であることは疑いない。
その場面が再び再現されるのだ。マイケルは、もちろんニックを救いたいとは思っていただろう。だが自分とニックがこの世界で最も1つになれたあの瞬間を再び味わえるという陶酔、エロスとタナトスの合体したエクスタシーに抗しきれなかったという理由もあったのではないだろうか。
そしてマイケルが引き金を引くときニックに言う言葉は何と…I love you.なのだ! この映画全編で、他にこの言葉は一度も使われていないはずだ。マイケルとリンダ、ニックとリンダ、誰も使っていない。少年時代に見た時は「アメリカ人って、こういう時、男同士でもI love you.って言うんだ」と感心したのだが…いや違う、それは本当にそのまま文字通りの意味だ。クライマックスのドサクサ紛れに、物語の一番核心となる台詞を持ち出してきたのだ。
 
そしてエピローグ。ここでもまたマイケルとリンダの間で意味深な視線の交錯が長く描かれるが、フォークなどを落としそうになった時に交錯した視線は、その後まったくからみ合わない。マイケルがリンダを見る時はリンダが目をそらしていて、リンダがマイケルを見る時はリンダが別のところを見ている。通常なら、ここは互いに視線を交わし、友の死の悲しみについて無言で言葉を交わすものではないのか。
つまりここでもマイケルとリンダは本当に心が通い合っているわけではないということだ。なぜ通い合っていないのかは、ここまでさんざん書いてきたことを読めば分かるだろう。結局この2人は、最初から最後まで同床異夢なのだ。
 
そもそもなぜそんなややこしい、ミスリードを招くような作劇なのかと言えば、この作品がオープニングから匂い立つように分かる「アメリカの田舎の物語」だからだ。今はラストベルトの1つとなっているペンシルベニアの鉄工町。ロシア正教が少なからぬ影響力を持っていることも分かる。時代は1970年代初め。南部ほど保守的ではないかもしれないが、それでもニューヨークやサンフランシスコなどと一緒に考えてはいけない。ヒッピームーブメントもクソもない田舎町で、口が裂けてもゲイであるなどとカミングアウトできないことは想像に難くない。
それはこの映画自体も同じ。製作されたのは1978年。まだ『地獄の黙示録』も完成しておらず、初めてのベトナム戦争大作だ。ただでさえ論議を呼ぶこと必至なのに、さらに主人公のゲイ設定を明確にすれば、「混ぜるな危険」の化学反応で大変な騒ぎになるし、興行的にもリスクが高すぎる。
そこで「男同士の強い友情と、残された女の愛の物語」という古典的な物語のようにも読める(ほとんどの人はそう読んだ)ミスリード設定を用意したのだろう。
ところが、そのミスリードと本音の部分がうまく昇華されぬまま混在し、その問題を抜きにしても数多くの破綻がある脚本のせいで、いろいろとぎこちなく謎の多い作品に仕上がったのが、この『ディア・ハンター』というわけだ。
 
かつて本多勝一が鋭く批判していたベトナム人蔑視や、ご都合主義展開の問題など、まだいろいろ書きたいことはあるが、長くなったので、ここまでにしておく。



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