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2022年10月24日21:40

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ノートの写し377

〇無為に過ごすとは、コントロールが効いていないことである。したがって、退屈はそれ自体としては存在せず、リアリティを制御したいという癒しがたい渇望が常にあるだけとなる。どんな形でもいいから、リアリティを自分の意思に従属させたいのである。その意味で、ゲームはコントロールされるリアリティを自分の意思に従属させたいのである。その意味で、ゲームはコントロールされるリアリティのシュミレーションとなる。
 例えば、ある種類の鳥は松かさで磯ぶことを好む。この松かさこそが、独立して存在する制御不能のリアリティの一部なのである。だが、鳥が松かさを自分のゲームの属性にした途端、ある意味、リアリティそのものと言ってよいこの松かさが制御可能となる。
 そり遊びも、ある種のコントロールである。リアリティがあなたを運んでくれるのだが、それもあなたの欲するままに、という事である。他のどんなゲームも「自分の欲するままに」というルールに多少なりとも従っている。ゲームのシナリオはあらかじめある程度決まっているので、状況が予見できる。もちろん、主導権を握ることがとても難しいゲームもあるにはある。とはいえ、すべてのゲームは、どのみち、出来事を自分の意思に従属させるという一点に行きつく。
 エンターテインメントも、見る側にとっては、リアリティを制御するためのシュミレーション・ゲームである。音楽、書物、映画、ショーなどは、魂と理性のためのブランコである。緊張による消耗を余儀なくされる思考のマラソンはしばしば終わりにし、洗練されたメロディーや魅力的な筋書きの翼に乗って飛翔する。注目の的のヒーローたちに何が起ころうとも、全体が飼いならされ手なずけられたリアリティーであり、見ている者は心配せずに状況満喫できる。
 リアリティーのゲームは眠っているときも終わらない。魂と理性は、微かなそよぎにもリアリティが表現豊かな付き従ってくれる夢見空間において喜びを見出す。
 最後に想像力のゲームに触れて置こう。これはもう一つの受け入れ可能な方法である。人はただコントロールしたいものだから、ありもしないリアリティを考え出す。空想小説は尋常で無いことを扱う。それが非現実である間は、尋常でないことが許される。空想小説の世界は遠くにあるのである。ところが、現実のリアリティは近くにあるためにありふれてはいながら手の届かないところにある。なぜなら、リアリティに影響を与えるのは難しいからである。
 一般に、こうしたすべてのゲームは、退屈しのぎのために考案されたわけではない。日々の現実は制御不能であるがゆえに退屈なのではなく、ありふれているのである。日々の現実を「自分の欲するままに」というルールに従わせるのは容易ではない。そのため人は、そんなリアリティから、全てがたやすく予見できるゲームに逃れようともする。
 それでも、避けようのない現実からはやはり逃れ続けことができない。人間の人生は、状況や本人が置かれている社会的状態によって制約を受ける。リアリティの大部分は、本人の意思とは別に展開していく。「何々したい」という願望一つ一つに、「だめだ」という答えが返ってくる。「頂戴」には、「あげない」との返事が来る。こんな条件下でどんな手が打てるというのか。
 通常、人は明快にふるまう。望むものを達成しようとして、「頂戴」の原則に従い、取り巻く世界に対して単刀直入に作用しようとする。直に接触することによる直接的作用は、コントロールの一つの在り方である。しかし、それは決して唯一のものではなく、最も効率的なやり方でもない。
 私たちはほかのやり方で挑もう。手を後ろに組んで、世界の方から私たちの望みに応じてくれるようにしよう。次回からの文章には、その方法が述べてある。事象選択は直接的に作用することなしにリアリティを制御する技法なのである。ただし、ゲームのように遊び半分ではなく、まじめに行わなくてはならない。

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