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2022年10月15日21:37

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ノートの写し372

〇事象モデルにおいても矛盾を見つけることは可能であるが、そうはいってもこのモデルは多くのことを説明してくれる。事象モデルは、時間と空間について知られているいくつかのパラドックスを取り除くとまではいかなくても、少なくとも「和らげ」てはくれる。これまで、私達は、時間の同期化を伴う別の人生ラインへの移動を考察してきた。人生ライン同士は常に時間実に対して平行な関係にあった。言い換えると、いつも乗り換えは時間のある一点から全く同じ時間の一点へと行われてきた。
 ここで、時間軸に対して平行では無い二本の人生ラインをイメージしてみよう。これらの人生ライン上の同一点を時間軸に投影すると、異なった場所に位置することになる。これらの人生ライン間の乗り換えは、傾きの方向次第で、過去又は未来への移動を意味することになる。傾きの総体的な勾配が移動に要する時間を決める。
 同様に、もし二本の人生ラインが、空間の選ばれた軸に対して平行では無い場合は、人生ライン間の乗り換えは空間における瞬間的な移動を意味する。人生ラインの傾きの勾配と方向は、移動の距離と方向を決める。いま述べたことはかなり乱暴な説明であるが、私たちには十分に受け入れ可能なものである。
 細部にこだわる読者はこんな反論をされるかもしれない。「ところで、時間旅行の際の因果律のねじれというパラドックスはどうすればよいのか」仮に私が自分の生まれる以前の過去へ移動して、そこで・・・血も涙もなく自分の両親を殺害したとしよう。その場合、私はどうやってこの世に誕生したことになるのだろうか。事象モデルの枠内におけるこうしたパラドックスは、単にそう見えるに過ぎない。私が移動した後の人生ラインでは、私は本当に誕生することが不可能となる。だが、それがどうしたというのか。なぜなら私は他の人生ライン上で誕生したのだから。
 人生ライン、すなわち事象は無限に存在することを思い出していただきたい。その中には、私が存在するものもあれば、存在しないものもあ。もっとも残忍なパラドックスの愛好家は、自分の子供時代に移動し、そこで自分を待ち受けて、その無垢の生き物を抹殺する事すらやりかねない。しかし、この場合、彼は自分で自分に出会うのではなく、自分の別の事象の現実化と出会うのである。このような事象はありとあらゆる別の事象と一緒に存在している。
 自際に過去を変えることはできない。それはすでに起こってしまったのである。しかし、過去が起こったのは、人生ライン上の通過した部分の現実化が行われたからだけでなく、通過した出来事の事象が既に存在していたからである。その意味では未来について、未来はすでに起こった、という事ができる。だから、ある人生ラインから別の人生ラインへ乗り換えても、因果律は破られない。
 映画フィルムを手にとって、一コマを削除することはできるが、それによって後に続くコマが影響を受ける事はない。時間は停止している。ダイナミックに変化するのは、人生ライン上の事象の現実化だけなのである。真っ暗な森の中で懐中電灯の光で照らし出された点が移動することと全く同じである。
 実際に不可能なのは何かといえば、それは同一の視線性ライン上で過去や未来へと移動することなのである。まさにこの場合にだけパラドックスが生じる。腺理学を持つ人々の予言が非常に近いところを言い当てるが、間違う事もよくあるのは、この理由によるものではないだろうか。千里眼を持つ人々は何らかの方法によって未来の段本をスキャンする能力を持っている。もし数客された団本がわかの人生ライン上にあるとすれば、預言の誤差は容易に説明がつく。事象モデルによれば、ある人生ランともう一つの人生ラインとの距離が揚場あくほど、シナリオ上の乖離も大きくなのである。

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