アメバTVの地球平面説の番組で宇宙科学者がこんなことを言い出した。
「大地が丸いのは科学的な真実。真実は1つしかない。人が想定して話すことではない」
科学者が言う “真実は1つしかない” は正しい。
しかし、主張している人たちにとって真実でない主張などない。
誰もが “自分の主張が唯一の真実だ” と言うからケンカになる。
“人それぞれ” は自分に関係ないことだから言えること。
“大地は球体か?平面か?” のように、誰もがどちらかを信じている場合、“人それぞれ” にはならない。
それが自分の考えを構築する基礎になる部分だからだ。
私がキリスト教徒ではない人にイエスの復活や罪の赦しなどについて話せば、「へぇ〜。キリスト教ではそんなふうに考えるの?」となる。
でも “神様が人を創造した” とか “大地は平面であり宇宙はない” と言えば、“それは違う。真実と異なる” と反発される。
前者は “自分は興味も関心もない小説に何が書かれているか?” のような話だが、後者は “自分が信じる真実と異なる” ためだ。
人は何かを信じそれに従って自分の人生を歩んでいる。
人は、いろいろなことを信じるが、真実は1つしかない。
真実を信じる人は幸福になり、ウソを信じる人は不幸になる。
“人それぞれ好きなことを信じればよい” と言うのは、そのことに関して “どうでもよい” と考えているから。
真摯に向き合えば “人それぞれ” などとは言えない。
ただ現実社会では、他人が何を信じていようが相手の主張を無視することで、人間関係が維持されている。
真実は一つ。それを知りたいと願っても人にそれを知る力がない。
だから他人から教えてもらったことを信じるのであり、それは科学も宗教も変わらない。
何を信じるかは勝手だが、現実は真実を基にできている。
自分が信じたことが真実なら幸福になり、ウソなら不幸になる。
また、“神はいるか?いないか?”、“人は神が創造したか?猿から進化したか?” 、 “聖書は神の言葉か?ユダヤ人の創作物か?” など、公理が異なると議論のしようがない。
根本は信じることから始まる。
キリスト教の場合、
この世界には神がいることが基礎となっている。
神の存在を否定したら、すべて作り話になってしまう。
神がいるだけなら他の宗教も同じ。
いろいろな人が “神とつながり、神の教えをもらった” と主張している。
そんな中、“神はユダヤ人を選び、彼らに御自身の言葉を伝えた”と信じる。
そして “その言葉をまとめた書物が聖書” と信じる。
神は存在する、ユダヤ人は選民、聖書は神の言葉、
この3つを真実とすることで、初めて議論ができる。
ただこの時点で、“人が頑張って真理に到達した” という仏教は、人生の処世訓みたいな扱いになる。
日本で流行っているスピリチュアリズムは悪霊崇拝であり、ブッダの像を拝むのは、木や石にすがる虚しい偶像崇拝。
そして“日本人は神に選ばれた民族で世界の人たちに正しい教えを広める”といったような天理教や大本教などの教えは、教義はウソ、内容は処世訓となる。
幸福の科学もよいことは言っているが、大川隆法さんが神というのはデタラメである。
“人それぞれ”は耳ざわりのよい言葉だが、真実は一つしかない。
あることを信じれば他のことを否定することになる。
“どちらもあってどちらもよい” などと両立させることはできない。
知識の集積は信じることから始まる。
その信じることがウソなら、後のことは全てウソになってしまう。
その一番大事な “何を信じればよいか?” が、人には分からない。
ただ聖書に以下のような言葉がある。
もし、その計画や行動が人から出たもの(人の妄想)ならば、自滅してしまうでしょう。
しかし、もし神(真理)から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。
もしかすれば、あなたがたは神(真理)に敵対する者(ウソつき)になってしまいます。
( 使徒言行録 5章 38節 39節 )
新型コロナウイルスが流行ったことにされてから、
私は世間の言うことが信じられなくなった。
存在しないと思われるものを “存在する” と主張し、国民全体が、このウソを真に受け、皆がパンデミック設定を演じている。
新聞には数字のトリックを使った誘導報道が続き、
自民党が次の参議院選挙で勝つために利用している。
“科学は真実” と言われるけど、科学にはウソも多い。
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