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2022年02月07日01:53

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佐倉紀行36 佐倉城跡

 1月6日木曜日は、国立歴史民俗博物館を出た後、雪の降りしきる中、佐倉城跡〔佐倉市指定史跡〕を巡りました。
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 https://www.google.com/maps/@35.7226109,140.2163097,17z
 佐倉城は標高30mの鹿島山西端部に築かれた平山城で、西側と南側を囲みこむ様に鹿島川とその支流高崎川が流れ、北側には香取海(カトリノウミ)の一角を成す印旛沼に至る湿地帯が広がっており、鹿島川・高崎川・印旛沼が事実上の外堀の役割を果たしていました。
 本佐倉(モトサクラ)城主千葉親胤(1541〜57)が大叔父にあたる鹿島幹胤(カシマミキタネ)に命じて築城を開始させたのが発端でしたが、親胤が暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤(1557〜85)の代にも工事が試みられましたが、この時も邦胤の暗殺によって頓挫、築城予定地は鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれる様になりました。
 天正18(1590)年に権大納言徳川家康が武蔵国江戸へ入府すると、久野宗能(クノウムネヨシ)が13000石で鹿島城に入っていますが、慶長元(1596)年にその子久野宗朝が私闘の末に自害したため改易処分になってしまいました。当時の鹿島城はごく小規模な物だった模様です。
 慶長11(1606)年、小笠原吉次が尾張国犬山藩から22000石で鹿島城へ入りますが、慶長13(1608)年に常陸国笠間藩へ移封されています。
 そして、慶長15(1610)年に土井利勝が32000石で佐倉に入封して本佐倉城を再築しますが、慶長16(1611)年から鹿島城を新たな本拠とすべく大規模な連郭式近世城郭への改築工事を行い、元和元(1615)年にほぼ完成させて藩庁を遷しました。この結果、本佐倉城は廃城となり、鹿島城が佐倉城と改名されて城下町も整備されたのです。佐倉城は近世城郭としては珍しく石垣を全く用いない土塁の城で、北側では香取海が外堀の役割を果たし、本丸には天守閣・御三階櫓・本丸御殿等が設けられました。藩主が居住したのは二の丸御殿(対面所)で、北方の椎木曲輪(シイノキクルワ)や東方の東惣曲輪(ヒガシソウクルワ)は上級武家屋敷町となっています。
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 文化10(1813)年には盗賊の失火によって佐倉城天守閣が焼失したため、以後は御三階櫓が天守閣の代用となりました。また、二の丸御殿が老朽化したため、三の丸に松山御殿が設けられています。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県で佐倉藩は佐倉県となり佐倉城に県庁舎が置かれました。しかし、同年11月には旧下総諸県が統合されて印旛県が成立した際、当初、県庁舎は佐倉に置かれる予定でしたが、佐倉城は老朽化していて不適格と判断され、結局、現流山市の旧葛飾(カツシカ)県庁舎が用いられる事になりました。そして、明治6(1873)年に佐倉城には第一軍管東京鎮台佐倉分管が置かれる事となったため、兵営設置のため旧城の建物は撤去されました。
 兵営は主に椎木曲輪に置かれ、明治17(1884)年に宇都宮から歩兵第2連隊本部が佐倉城跡へ転営、明治41(1908)年に佐倉から水戸へ転営しますが、翌年、歩兵第57連隊が習志野から佐倉へ転営して来ました。
 そして、昭和58(1983)年に兵営跡に国立歴史民俗博物館がオープンした訳です。
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 二の丸馬出の空堀です。 
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 廃城後に埋め立てられましたが、城址公園整備の際に復元されました。
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 佐倉城跡で一番インスタ映えする箇所になっています。
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 二の丸椎木門(シイノキモン)跡です。
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 二の丸の佐倉陸軍病院跡です。
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 雪がドンドン積もって来ました…。
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 二の丸・三の丸間の空堀は藪で覆われてはっきり確認出来ませんでした。
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 二の丸礎石です。
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 陸軍施設建設の際にそのまま利用された模様です。
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 二の丸には老中首座・佐倉藩主の堀田正睦(ホッタマサヨシ)像が立ちます。
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 その隣には、正睦と日米修好通商条約締結交渉に当たったアメリカ合衆国初代駐日総領事タウンゼント=ハリス像も立っています。
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 二の丸二の門跡です。
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 二の丸御殿跡です。
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 藩主の居住スペースになっていました。
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 本丸・二の丸間の空堀も藪で覆われていました。
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 本丸入口の一の門跡です。
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 二階建ての櫓門でした。
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 本丸御殿跡です。
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 本丸土塁です。
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 土塁上には土塀が巡らされていました。
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 御三階櫓跡です。
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 台所門(不明門)跡です。
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 天守台です。
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 天守閣は二段の土塁上に片側を掛ける構造でした。
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 このため、本丸内側からは三階建てに、外側からは四階建てに見えていたのです。
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 天守台脇には佐倉城の夫婦モッコク〔千葉県指定天然記念物〕があります。
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 木斛(モッコク;Ternstroemia gymnanthera)は被子植物門双子葉植物綱ツツジ目モッコク科の常緑高木です。
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 南関東地方以西の暖地の山野に自生し、千葉県でも清澄(キヨスミ)山系の尾根に生育しています。手を掛けなくて育つため、庭木として好まれます。葉は厚く照りがあり、夏に小さな白い花を下向きに付けます。
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 この個体は、樹高約11.6m・目通り幹周2.6mに達しており、木斛としては異例の巨木です。元は三本ありましたが、強風で一本が倒れて現在は二本になっており、その二本が癒合しているため夫婦モッコクと呼ばれています。
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 佐倉連隊兵士の落書きが刻まれているそうですが、確認出来ませんでした。
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 二階建ての銅櫓(ドウヤグラ)跡です。
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 本丸を出た後は、水堀沿いの遊歩道を通って西出丸跡へ赴きました。
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 佐倉城唯一の残存建築物である薬医門です。
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 城内のどの門だったか不明ですが、廃城後に城下の民家へ移築され、昭和37(1962)年に甚大寺へ再移築、昭和58(1983)年に佐倉市へ寄贈されて、現在地に移されました。
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 西側水堀です。
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 南側水堀と南出丸です。
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 三の丸三の門跡です。
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 三の丸空堀です。
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《続く》
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