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2021年11月13日09:51

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聖書について

人に本を勧めても、まず読まれることはない。

私自身、いろいろと本を勧められたが、他人に勧められた本は数ページめくりやめてしまうことがほとんどだ。

書店に行くと本がたくさんある。

しかし、どれもありきたりの内容。一冊1,000円から1,500円ぐらい。お手頃な値段で中身は薄っぺらい。エンターテイメントの一種でしかない。

図書館には、もう少しマシな本が置いてあるが、それらの本は読むのに骨が折れる。

良書ほど最初はつまらないし読むのが大変。

なにがしかの目的で気合を入れて読まなければ読み通せない。


私は ”自分は平均的な人より不幸な人間だ” と感じてきたが、35歳で実家を出てからは、そうでもなくなり、今は平均的な人より幸福だと感じている。

そのきっかけは ”聖書を読み真実を知った” ことだ。

聖書を知らなければ、私は今でも無知から不幸な人生を歩んでいただろう。

人は人生を構築する時、その基礎となる思想がある。

それがおかしな思想だと、確実に不幸になってしまう。

両親やまわりの大人が正しい知識を与えることができれば、子どもはその上に自分の人生を構築し幸福になる。

でも両親やまわりの大人に正しい知識がない場合、子どもは自分の両親やまわりの大人が信奉している数々の教えに振り回され不幸になる。

私の父がそうであったように、愚かな人は知識を軽んじる。

彼らは言う。「思想では飯は食えない。思想などクソだ。実体のある物が大切だ」

「魚を与えるより魚の捕り方を教える」という格言がある。

あれは ”釣りの仕方や網の張り方を教える” という意味ではなく、”「魚を乞うのではなく、魚を得る方法を考える」方向に自分の思考を持っていく” という意味だ。

思考の方向が間違っているから不幸になる。

彼らは”唯物論で考えることが賢い”と勘違いしているから、自分の愚かさに気づかない。


キャンプに行った時、友人にこのことを話したところ、彼は完全に勘違いし、こんなことを言いだした。

「確かに教育にお金をかけられる家庭なら、子どもによい教育を受けさせ、よい学校に入学させられるから、その子供は恵まれている」

いや、そんな釣り方を教える話ではなく、私が言っているのは人生の土台、自分の思考。


小説「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンが刑務所で文字を習う機会を得、それによってはじめて知識へアクセスできるようになった。

重要なのは文字が読めるようになったことではなく、それを通じて ”魚を捕る方法を考える” という思考を手に入れたことだ。

”腹が減ったからパンを盗む” その方向から、”まずは他人にあわれみを乞おう” とか ”商売をして儲けよう” という方向にシフトする。

小説でもジャン・バルジャンが ”なぜ盗んでしまったのか?” 後悔する場面がある。

教会でも慈善団体でもどこでも ”乞えばパンを与えてくれた”、でもその方向に物事を考えられず、手を伸ばしパンを盗んでしまった。

「思想はクソだ。カネがすべて」と言っている人は、感情にまかせ目の前のパンを盗む人であり、その結果は不幸に終わる。


今の時代 ”神は存在しない” とか、”猿が進化して人間になった” とか、”地球は丸く太陽の周りを高速移動している” とか、そういった迷信が真実だと語られ、それらによって人は神とリンクづけられた正しい知識から切り離されている。

正しい知識から切り離された人は、人生を誤った知識の上に構築し、不幸になる。

聖書の箴言にも書かれている通り「神をおそれることは知識の初め」であり、人は神を恐れることから知識を得ようとする。

聖書は分厚く字しかない本だ。

聖書を手にとり気合を入れ読むのも、”この世には神がおり、それがとてつもない存在で、何を考えているか分からないと怖い” と感じるから。

”怖い” という動機ほど、人を動かすものはない。


聖書は宗教の本ではない。

この世界の真実が書かれた本であり、これを読んで、世間で信じられているウソから目覚める人もいれば、「聖書なんてウソだ」と言って、自分の信奉するウソにしがみつく人もいる。

ウソにしがみつけば、ウソにしがみついた人生となる。

何を信じるかは勝手だが、真実は一つであり、その真実に従って世の中が動いているのに、それを否定し間違った土台を据えれば、不幸になって当然。


今の時代、ウソが力を持ち、ウソが多くの人の人生の土台になっている。

たとえば ”地球は丸い” という話にしても、”地球は丸い” という思想が基礎のあるのだが、トンネルを掘る時 ”地球は丸い” として掘るとトンネルが曲がってしまう。

だからトンネルを掘る時は地球が平面として掘る。そういうちぐはぐが起こっている。


アンチ・キリスト教から聖書を読む人もいる。

彼らが最初に気づくのは、聖書はダーウィンの進化論やホーキングの宇宙論のような真実を書いた本であり、”人に特定の思想を押し付ける宗教本ではない” ということだ。

次に自分たちが信じる進化論や宇宙論とは違うことで、聖書を ”古代人の妄想だ” と言い出す。

しかし、地球が丸いはずなのにトンネルを掘る時は平らとして掘らないと掘れないようなことに気づき、真実に目覚める。


一番、真実を得ぬくいのは、聖書が好きでも嫌いでもない聖書に無関心の人たちだ。

彼らは薄っぺらい本で気持ちよくなることはしても、正しい知識を求めようとしないから、真実を知ることなく不幸な人生を過ごす。


私の両親は私より生きた年月は長いが、実際に生きた年月は私の方が長い。

彼らは、確かに長い時間、この世に存在したが、仕事以外の時間の多くを、酒を飲んで呆けていたり、気分がよくなるだけのドラマや映画、テレビなどのエンターテイメント、また得る物がない人たちとの交際に費やしてきた。

だから子供が40歳ぐらいになれば、まともに生きてきた子供の方が両親より長い時間、この世に存在したのと同じだけの知識と経験がある。


日本人の多くは聖書を読まない。

「勉強は必要だ」と言い、試験に受かるための語句の暗記は推奨するが、世の中の真実には関心がなく、そのため不幸になっていても、それすら気づかない。

自分は、おぞましい悪霊が裏で糸を引く迷信を信じ、木や石で作られた偶像に願掛けしながら、「宗教は恐ろしいから関わりたくない」と言っている。

”私の言葉より、聖書を読むこと”

”ただ聖書を読みさえすれば、世界は変わる”

せっかくこの世に生まれて来たのに、”なぜ自分たちがこの世に生まれて来たのか?” そんな生きる意味も知らず、ただ快楽を求め死を恐れ、そして死んでいく。


私が人生で最も幸福だったことは、聖書に出会い、これを読む機会に恵まれたこと。

”聖書を読まずに死ぬ人生は、とてもむなしい”


両親を見ながら思うのは、「この人たちは死ぬまで神を知らず迷信を信じ偶像を礼拝し、生きる意味も知らず、ただ快楽を求め、死を恐れ死んでいくんだな」ということ。

彼らにも ”聖書を読んで欲しい” とは思うが、他人に本を勧めても読まれることはない。

本を読むのは大変な作業。

自分から手にとり読まなければ、とても読み通せるものではない。

また ”聖書は宗教の本” と信じる日本人に勧めれば、”宗教の押し付け” ととらえられかねない。

聖書を他人に勧めれば「変な人」扱いされ、身内に勧めれば不和を起こす。

アンチ聖書であっても、自分から読もうとする人以外には、口に出して勧めることすらできない。


再度、これだけは言いたい。

”聖書を一度も読み通さずに死ぬ人生はむなしい”

神が創ったこの世界で神の心を知らずに生きることは、根のない草として生きるようなものだ。
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