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2021年11月07日08:04

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僕の美術鑑賞法について

 現代美術についての文章を読むたび,美術鑑賞法について自分なりに色々なことを考えます。

 美術に興味を持つまで,僕は「自分に美術は興味も無いし判らない」と思っていました。幼少の頃からお絵描きなどには何の興味も無く,小学生時代の図工の授業も正直苦痛でしかなかったのを覚えています。中学生になってからは「中学に通っているのだから,これもやらなければならない」という弁えが出来たせいか美術の授業もそれほど苦痛ではなくなりましたが,それでも楽しい思ったことはありませんでした。社会人が好むと好まざるとに関わらず,自身の職業的義務を淡々とこなすような感じで課題をこなしていたといえば皆様にもピンと来るのではないかと思います。
 一方,図工・美術の授業では制作のみならず鑑賞を行うこともありました。中学校では殆ど機会がありませんでしたが,小学校では主に校外学習の形で美術展などを観に行くという行事が何度かあったものです。こちらは何もしなくても時間が過ぎていくので僕にとっては制作よりずっとマシでしたが,絵を観ても何も感じも判りもせず,やはり極めて退屈な時間でしかありませんでした。これは授業に限らず両親に連れられて美術館などに行っても全く同じで,やはり美術を観ても「つまらない」「判らない」で終わってしまっていたのが僕の少年時代です。今になって考えてみると「絶対判らない」という訳ではなく,たとえば絵本や伝記の挿絵,或いは子供向けの本の表紙絵などは何を表現しているのかそれなりに見当もついたし心惹かれることもありましたが,そういった特別な例外を別にすれば本当に判らず,観ていて楽しいとも興味深いとも全く思わなかったというのが正直なところです。これは僕が高校生になっても大学生になっても同じでした。僕の高校では芸術科目は音楽・書道・美術の選択制で,音楽を履修した僕はもう美術の制作に携わることはありませんでしたが,やはり何かで美術鑑賞を行う機会はあり,以前と全く同様に僕にとっては退屈極まる時間でしかなかったのは全く同じです。

 そんな僕が今では「三度の飯より好き」というほど美術鑑賞に夢中になってしまいました。今は各種SNSという便利なものがあり,それのおかげで古い時代の友人達と交流を続けたり或いは蘇らせていますが,僕が美術に夢中になっているのをご覧になると皆さん「え(-ω- ?)」と不思議に思われるようです。半ば笑い話ですが「同姓同名の別人かと思った」などとからかわれることもありますし,昔の僕が「美術なんか判らないよ」と言っていたのを覚えている方からは「判るようになったのかい(^^?」などと問われたりも致します。それに対して僕は「まあね」と苦笑するばかりですが,掛値無しに少しは判るようになった面も確かに無くはないでしょう。たとえば「西洋画において,青と赤の衣を身に付けて幼児を連れた女性は聖母マリアである」などというアトリビュートの知識が幾らか身に付きました。それによって「これは聖母子像だな」と把握出来るようになり,今まで何なのか判らなかった絵についても物語の表紙絵や挿絵のような感じで理解出来るようになったのは間違いありません。また歴史や地理の知識を得たことで歴史画や風景画について「ああ,これは何々を描いているのだな」という把握も出来るようになりました。或いは「色彩分割という技法によって屋外の光の明るさを的確に表現出来るようになった」といった知識を得たことで,印象派の絵画作品については光の表現に注目するようにもなりました。こうした知識によって今まで退屈だった美術鑑賞が一転して楽しみの時間に変じたことを僕は実感しており,今後も勉強を続けていきたいし続けていかねばならないと確信しております。
 とはいえ。僕の知っている事柄はあまりにも少なくしかも断片的で,到底実用レベルには達していません。美術鑑賞を重ねるうちに僕は幸いにして美術家や美術学生の友人たちを得ることが出来ましたが,その方たちを「(;´・ω・)」と思わせるレベルの知識しか無く,実際に困らせてしまったことも稀ではありません。無論「だからこそ勉強をするのだ」という気持ちに嘘はありませんが,それにしても現在僕の持っている知識をフル活用したところで,美術の的確な理解など到底不可能な話です。これは全ての美術に当て嵌まる話ですが,かなりの見巧者ですら戸惑うことのある現代美術については特に尚更ではないかと感じております。

 そんな僕が,どのように現代美術を含めた美術を鑑賞しているのか。
 まずは感覚です。何となくでも美術作品を観ていると「よく判らないが,なんか面白そう」「何故か心惹かれる」といったことを感じます。かつての僕はそうした感覚を「そんなことを一瞬感じたからといって,美術が判るわけではない」と否定的に捉えておりました。しかし,考えてみれば小さなお子さんでも絵を観て喜んでいることは珍しくありません。彼らは深い知識を持っている訳ではないでしょう。無論,そういうお子さんたちは僕などの及びもつかぬ優れたセンスの持ち主に違いありませんが,僕も「面白い」「心惹かれる」「好き」と感じるということは,たとえ貧弱で的外れな代物とはいえ何某かのセンスは持っているということです。質も低く量も少ないとはいえ,現に持っているのならばそれを利用しない手はありませんね。
 そしてもう一つ,専門家の解説を聴いて参考にするという方法で鑑賞を進めています。美術館の展覧会には音声ガイドが用意されていたり,或いは作品の脇にかなり長文の解説が掲示されていたりします。それらを聴いたり読んだりすることで「ふむふむ,そういうことか」と感じながら鑑賞するというのは知的好奇心をくすぐられるし,何よりとても楽しいことです。
 もっとも「そうは言っても,専門家のガイドなど用意されていないことも多いではないか」と感じる方もいらっしゃることでしょう。そのとおりで,特に現在も活躍中の美術家の展覧会だと詳細なステートメントが用意されていることも稀には存在しますが,普通はそういった類の用意はありません。そういう場合にはどうするか。無論,僕自身の怪しげな「センス」と聞き齧った断片的な知識だけで鑑賞する場合も多々あります。しかしもし展覧会場に作家さんがご在廊であれば僕なりに感じたことや判らないことを申し上げ,お話を拝聴したり致します。作家さんが不在でもキュレーターさんがいらっしゃれば同様です。作家さんやキュレーターさんには貴重なお時間を割いて頂き本当に申し訳無いのですが,大抵の場合には快く応じて頂き,そういったご厚情には本当に心の底から感謝しております。

 このように申し上げると「感覚はともかく,知識や解説を頼りにするというのは他人の観方をなぞっているだけではないのか。それが主体的な鑑賞と言えるのか」という疑問をお感じになる方もいらっしゃるでしょうか。しかし僕は「他人の観方をなぞっているだけではない」「また仮に他人の観方をなぞっても問題は無い」と考えています。
 そもそも「作者が何を表現したかったのか」という事柄は,果たして観る側が決めることに含まれるのでしょうか。僕が今こうして書いている文章について,お読みになった方がどのようにお感じになるかは勿論読み手のご自由です。しかし一方で僕が何を言いたいのかを決めるのも読者の皆様なのかと言えば「どうもそうではなさそうだ」と僕は思ってしまいます。たとえばこの文章をお読みの方が「これは大阪メトロ御堂筋線の話だ」とか「この文章を書いた者は北海道の農業政策を論じている」などと言われてしまっては,僕としては「何でそうなる(。´・ω・)?」と思わざるを得ませんし,実際そういうことを申し上げたくて書いている文章でもありません。読み手の自由に委ねられているのは「この文章が良いか悪いか,僕の意見に賛成か反対か」そういった事柄に関してでしょう。同様に美術鑑賞に際しても「作者は何を表現したかったのか」については作者の立場にたって捉えるもので,自由な鑑賞というのはその後に行うものだと思っています。因みに僕は,たとえ他人が「これは傑作(駄作)だ」と言っても,その点については他者の意見をも参考にはするにせよ,最終的には自分で判断を下しています。
 また仮に僕の鑑賞が「他人の観方をなぞっているだけ」だったとしても,僕は「それもまた良し」と思っています。僕にとって美術鑑賞とは何か。勉強であり人格陶冶であることを否定は致しませんが,何よりもまず楽しみです。仮に他人の観方をなぞっているだけだとしても当の僕がそれを楽しいと感じている以上僕にとって充分に有意義な時間であり,それを悪いとする理由は存在しないでしょう。

 どのような美術を鑑賞する際にも,僕のスタンスは同じです。しかし特に一見するだけでは何を表現しているのか判らない現代美術を前にして,それを的確に理解する知識を持たない場合…殆どの場合,僕はそうなってしまう…には,これは我ながらなかなか良い態度なのではないかと自分では思っております。
 皆様はこの点,どのようにお考えになられますか。



現代アートとは?アートの歴史から見る現代美術の楽しみ方
https://media.thisisgallery.com/20220290
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