”同じことでもみんなが同じように苦しんでいるわけではない。”
私は大部分の人より苦しみの多い人生を送ってきたが、その原因を考えた時、私の母親が ”自分のわがままを通すため息子にウソをついてきた” ことが分かる。
親といえば「大地は丸い」と教える科学アカデミー以上に信じてしまいがちだが、”科学アカデミーは人々に正しいことを教えるため存在する” のがウソなのと同じぐらい、”親が子供のことを考えている” というのはウソである。
他の家庭は知らないが、少なくとも私自身の家庭はそうだったし、他の家庭でも、おおよそ ”親は子供のことより、自分の面子やら利益やらを優先して考えている” と考えて間違いない。
信じる信じないは勝手だが、美しい親子の情を信じれば、自分が苦しむことになるし、それで人生を破滅させても、親は何一つ責任をとらず、子供を厄介なものとして扱う。
母は「みんな同じように苦しんでいるから、耐えなきゃだめだ」と言った。
「逃げることは愚かなことで、人生のすべてを失う」と言った。
現実は、人には生まれ持った性質があり、同じ仕事でもうまく立ち回りよい思いをしている人もいれば、まわりからイジメられ苦しんでいる人もいる。
民主主義の前提は ”国民が愚かであり、愚かな選択をする” こと。
選択の自由を認めているため、もし中世レベルで国民が賢かったら、奴隷となる人がおらず、社会が維持できない。
だから ”地球は丸い” と言えば、何の疑いもなく ”地球は丸い” と信じ、それが ”弾丸の早さで回っている” と言えば、これまた何の疑いもなく信じる国民が必要だ。
そのため科学アカデミーは、啓蒙と言う名の愚民化に専念してきた歴史がある。
それら啓蒙された親が子供に言うことは、たいてい間違っている。
平らな地平線を見ても ”丸い” と言い張るように、彼ら自身、ウソを信じてもいる。
愚か者は自分も破滅し、他人をも破滅させる。
「こいつはバカだ」と知っていても、そのバカが力を持つと、バカの思考に従わされ、損をする。
私は親を非難したいわけではない。
”親とはそういうものだ” と言いたいだけだ。
私は大部分の人より苦しみの多い人生をおくり、大半の人より不幸な人だった。
聖書という一冊の本が、私の目を開かせ、私に光を与えてくれた。
人を本当に愛することができるのは神だけであり、原罪を持つ人間に真に人を愛することはできない。
美しい話にも必ず裏があり、よくてウィン・ウィン、悪くて詐欺。それが現実だ。
現実から目を背け、存在しない病気のため病気になるワクチンを打つような人々には理解できないことだろうが、そうやってウソを信じた結果は不幸な人生でしかない。
先日、犯罪者の更生の話を聞いた。
刑務所を出所した人が行き場もなく浜辺で立ち尽くしていた時、それをほかっておけなかった人が家に引き取り、更生に尽力した話だ。
それを中学生のひ孫が文章に書き、感動的な話であった。
でも私にはどうしても違和感があった。
それは助けた人が ”自分は立派な人” と思い込んでいることだ。
そしてそれを見たひ孫がその人を誇りに思っている。
イエスは十字架にかけられた時、言った。
「父よ。彼らを許したまえ。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」
犯罪は無知から犯してしまうことが多い。
人はみんな愚かである。
罪を犯さなかったのは、何もその人が賢かったからではなく、また罪を犯してしまうのも、その人が愚かだったからではない。
すべては運命。
だから他人を助けるのは、自分を助けることであり、もしかしたら自分が相手の立場に陥っていたかもしれないのだ。
このことが理解できる人は少数だし、少なくとも私の両親はまったく理解できない。
昨日も仕事ですっかり疲れてしまい、ぐったりして頭も働かないので早く寝た。
私の人生を思い返してみて、あまり幸せだった時がない。
同じことでもみんなが同じように苦しんでいるわけではない。
自分を変えることなど誰にもできない。
だから自分が合った場所へ自分で移動しなければ幸福は手に入らない。
苦しみは幸福へは続かない。苦しみはただ苦しんで終わるだけ。
努力は結果をもたらさない。努力はただ苦しんで終わるだけ。
幸福は将来あるものではなく、今、ここでなければ意味がない。
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