「詩的映像文法」の徹底活用が、『DUNE/砂の惑星』の特徴になっている。
それに寄与しているのが、「硬いものと流動するものの対比」。
複雑で壮大な物語を、この枠組みの中に収めている。
砂の惑星シーンでは、隆起する岩盤と、流動する砂がある。
せめて来る敵方の宇宙船も、コンクリートの塊のようなもので、そこに雨が降ることで流れる水がある。権力者皇帝も、瀕死の重傷を負いながら、黒い油のような液体の中で療養している。
この2つの両極端な資質を持った物体の間に、人間たちが配されている。
普通の映画作家の凡作『インターステラー』と比較してみるとわかりやすい。
『インターステラー』にも『デューン』と同じように、砂嵐、水の隆起、荒涼とした世界などが出てくるが、それらはなんら有機的な連関はなく、場当たり的な要素でしかない。最後に、砂の漏れていた壁の後ろに登場する異世界の描写も、説得力がない。
ただ、全てが説明されてしまう今のつまらない映画術に慣れている観客にとって、『デューン』のような潜在的な根本要素が連関していくような文法は、わかりにくく、とっつきにくい。逆に退屈なものに見えてしまう。このあたりが、評価の低さ(星の少なさ)の原因かもしれない。
ヴィルヌーヴは、そういうわかりやすさを優先させない。
だが、それゆえに『デューン』は人に特別な映像視聴体験を持たせてくれる。それは
まるで、「未来から送られてきた映像を、頭の中でキャッチして、脳内再生している」よう。
これは、特別な個人、優れた作家その人にしかできないことであり、到達できない領域。
これまでの映画史の中では、タルコフスキー『ノスタルジア』や、スタンリー・キューブリック『2001年 宇宙の旅』など、ごく限られた映画作家が、限られた作品の中で実現してきた。
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