以前、ある人が日記でこんなことを書いていた。
彼は、小学生の頃、クラスである少年をからかっていた。
彼いわく、水に浸した手を彼の顔の前ではたいて水滴を顔にかけたり、つついたり、彼が嫌がることを言ったり、遊び半分でやっていたとのこと。
それがある日、学校の先生に呼び出され、彼はそのことで叱責され、家に帰ると「なんてことをしたんだ」と言って親が怒っていたという。
そのことで、彼はどんな風に感じたか?
ちなみに彼は20年も前のことを回想して言っているのだが、その気持ちは今もまったく変わっておらず、”過去にこう感じた” ではなく、”今もこう感じている” と書いている。
”あの野郎。よくも親に言いつけやがったな”
悪人は生まれた時から悪人であり、外見はかわいらしい小学生であっても、大人の悪党と変わらない思考をしている。
そこには ”悪いことをした” とか、”自分がされたらどんなに嫌なことだったか?” とか、”相手を思いやる気持ちがなかった” など、そのような反省は一つもない。
子供の時に反省がなかっただけでなく、大人になった今でも反省はない。
そして彼は続けてこう言っている。
”それまでは、顔に水をかけたり、つついたり、嫌なことを言ったりする穏やかなものだったが、親に告げ口するような卑怯なことをされたので、その後は、本格的にイジメてやった”
これが悪人の考え方であり、普通の人には理解できないものである。
しかし、彼の言うことを100%信じてはいけない。
もし彼がそれでうまくいっていたなら、こんな日記は書かなかったわけであり、実際はうまくいかなかったから、それがくやしくてこの日記を書いている。
そのうまくいかなかったところが日記から抜け落ちているが、彼の怒りに満ちた言葉からそのことが分かる。
おそらくこの男は親に告げ口されたことで、この少年を脅しただろう。
そしてさらに学校で問題視され、この男は ”ロクでもないクソガキ” というレッテルを貼られ、不利益を被ったことだろう。
この男はそれが悔しくて、20年もたった今、こんな日記を書いたのであり、もし少年が親に告げ口していなければ、この男は好きなように少年をイジメ、今、こんな日記を書くことはなかっただろう。
ただ彼が言う、”告げ口する前はイジメも穏やかだった” というのはウソである。
体格の差から反撃できないことをよいことに、この男は告げ口される前も、少年に対し苛烈なイジメをしていただろう。
むしろ告げ口されたことで、クラスを別にされたり、先生や親からの監視があることで、以前ほどはイジメができなくなったと思われる。
この男は、それも悔しくてこの日記を書いているが、そのことは隠している。
悪人が他人に悪事をなすのは、相手が弱いからであり、ケンカすれば自分が勝てるから。
そんな彼らが恐れているのは、その悪事が公(おおやけ)になり、自分よりはるかに強い公権力によって自分が裁かれること。
だから悪人は「一対一でタイマンしろ」と言うし、また「公にしたら許さん」と言う。
この男は、告げ口する前はマイルドなイジメ、告げ口した後は苛烈なイジメということにし、”公にすることは相手とっても損だ” と思わせることで、自分が不利益を被らず、思う存分、相手をイジメようとする。
悪人は、このような日記を書き、自分に都合がよい理屈を広めようとする。
”なぜ、そこまでして他人をイジメたいのか?” 普通の人には分からない。
そもそも普通の人は、”他人をイジメておもしろい” とは思えない。
でも悪人とはそういうものであり、普通の人とは脳の作りが違う。
フィリピンのドゥテルテ大統領は、悪人は容赦せず射殺で対応し、人々の生活を守ったが、その判断は正しい。
悪人は人ではなく悪魔そのものであり、改悛することはなく、力で滅ぼさない限り喜々して人々に害をもたらす。
害虫は殺さない限り穀物を食い荒らすのと同じく、悪人は死ぬまで他人を害し続ける。
昨日、図書館で借りて来た「おっさんず六法」を読み終えた。
トラブルはこちらが望まなくても、やってくる。
そんな時、一番いけない態度は、恥や外聞にとらわれ、”今を耐えればよい” としてしまうことだ。
悪人がやってくるのは、”こいつは俺より弱い” と考え、”自分が不利益を被ることなく、相手をいいように扱える” と考えるから。
彼らの言い草は常に、”恥と外聞” であり、それによって公に出すことを妨げる。
弱みを握るという手も使う。
”毒を食らわらば皿まで” ということわざがある。
本来の意味は ”悪事をしだしたら最後までやりとげること” なのだが、一方で ”些細な不利益を被っても、根本をやりとげる” という意味もある。
恥をかいても、外聞を損なっても、それはしかたない。
弱みを暴露されても、それ以上に相手には不利益となる。
闘争は相手にダメージを与えることに意味があり、自分が傷つくのを恐れれば、より深く傷つけられてしまう。
悪人はアカの他人とは限らない。むしろ内部の人間の方が多い。
アカの他人なら簡単に訴えることができるが、内部の人間だとそうはいかない。
中学生が道を歩いていて、見知らぬ不良少年に遭い、金銭を強奪されたとする。
その中学生は何の気兼ねなく、親に話し、学校の先生に話し、警察に通報する。
でも現れたのが、クラスの悪童で、「告げ口したら、仲間はずれにする」と脅してきたら、その中学生は親に言えないし、先生にも話せない。警察に通報することもできない。
同じ悪党が同じように犯罪を犯しているのだが、前者は犯罪として挙げられるが、後者は無罪放免となってしまう。
悪人はそれを利用している。
家族間であっても、法律に触れるほどのことであれば、公の場に持ちだし、一家の恥をさらすべきであり、それは自分が耐えればすむ話ではない。
親は親という名の下に悪事をなし、”家庭内のことを外に知られるのは恥ずかしい” と言っては、自分のわがままを通す。
悪人を親に持つ子は、そのことで悩み苦しんでいる。
これは、配偶者、恋人、仲間、すべてにあてはまる。
以前、私の母がこんなことを言ってきた。
なにやら ”東京に住む兄が有料サイトを閲覧したとのことで請求書が来た” とのこと。
母は「もし本当に閲覧したなら払わなければならない」とアホなことを言っていた。
閲覧していなければ払わないのは当然。また閲覧していたとしても、支払いを明記しない違法サイトなのだから、払う必要はない。
自分の母親の情けなさは泣いても泣けないほどである。
外聞ばかり気にし、物事を穏便にすませようと考える人にはトラブルがつきない。
”穏便にすませようとする人” と思われるより、”不正に対しとことん闘う人” と思われた方が、幸福に生きていくことができる。
和を保つのは問題がないからであり、問題があれば和を保つ必要はない。
そもそも悪いこととは、こちらが和を乱すことではなく、相手が悪をなすことだ。
悪人は問題のすり替えをしたがる。
たとえば、今回のこの男にしても、問題はこの男が少年をイジメることなのに、それを少年が正々堂々と戦わないことにすり替えている。
こういう悪人に対しては、相手の術中にはまらないように気をつけなければならない。
悪人は、子供の頃は「親に言ったら承知しないぞ」と脅すが、大人になると「警察に言ったら承知しない」と言う。
悪人からの承認などいらない。
さっさと悪人を法の下に引きずり出し、そこで彼の言う道理(正義)が正しいかどうか、審議してもらえばいい。
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