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2021年09月10日21:14

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9/10(金)独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(中篇)9月10日で大北方戦争終結から丁度300年 withコロナ時代を見据えて動くB’z 

  9月10日(金)
本日、東京多摩地区は久しぶりに日差が戻り、最高気温は29度を記録した。湿度は40%台、日暮れ時には、秋らしく、網戸から涼しい風が吹き込んだ。明日同時多発テロから20年の節目となる9月11日、首都圏の空模様は雲が多くなり、ところどころにわか雨が降ると予想される。

 ワクチン接種が進む今、コロナの感染者数は減り続けている。本日日本全国で確認された新規陽性者数は8892人、コロナ感染による死亡者は69人と明らかにされた。厚生労働省によると、人工呼吸器ECMOの装着を必要とする重症患者は、前日比48人減となる2125人と発表された。
 詳細 NHK NEWS WEB https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013253921000.html

 日本政府内にある分科会のメンバーは、今月3日にコロナワクチンを接種した人の行動制限を緩和する提言案をまとめた。そのひとつとして、ワクチン接種証明書やPCR検査の陰性証明書の有効活用である。大規模イベントへの参加を容認し、自粛を求めていた都道府県を跨ぐ旅行の全面解禁等である。

 写真=B'z 掲載元テクくら https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/10/news157.html
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 早速2人組のロックバンド「B’z」が動いた。ライブ会場内での感染拡大の防止に向けて、来場者に「ワクチン接種証明書」や「PCR検査での陰性証明書(公演日から72時間以内)」の提示を呼びかけた。提示した客には「Thanks!」と文言が入ったオリジナルステッカーをプレゼントする。9月18日(土)と19日(日)に大阪城ホールで、9月25日(土)と26日(日)には横浜アリーナで、2年ぶりとなる有観客ライブを開催する。タイトルは「B'z prezent UNITE 01」、大阪城ホール2公演ではMr.childrenを、横浜アリーナ2公演ではGLAYをゲストに招く。他のバンドをくわえてのライブは、B’z初の試みである。withコロナ時代を先どったプレゼント企画は、ネット上で話題になった。デビューから23年、今なお進化を続けている。

 写真=開催予定のライブ「B'z prezent UNITE 01」のロゴ入りステッカー 掲載元 GLAYとB’z オフィシャルホームページより
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 https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=32&from=diary&id=6662942

 <フメリニツキーの乱 大北方戦争終結へ>
目次
・第1章 フメリニツキーの戦い
・第2章 ウクライナの運命を決めるペラヤースラブ協定について

         大北方戦争終結300年
・第1章 対スウェーデンをにらみ、北方同盟を形成する

 独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(中篇)ウクライナの独立からモスクワの保護下へ、9月10日で大北方戦争終結300年

2021年9月10日(金)本日で、バルト海の覇権を巡るロシアとスウェーデンが戦った「大北方戦争」終結から300年の節目を迎えた。両国の運命と共に、東欧諸国の未来を大きく変える出来事だった。ニスタット(現在フィンランドのウーシカウプキ)の条約により、敗者のスウェーデンが、ロシアの要求を呑んだ。当時スウェーデン領だったフィンランドの西カレリア地方と共に、エストニア共和国やリヴォニア(現ラトビア)、イングリア(ネヴァ川流域のフィンランド湾やラドカ湖周辺地域)をロシアに割譲した。

写真 掲載元 OMA復習 https://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/8091/
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同年11月2日にモスクワからロシアへと改名した。ピョートル自身は、元老院と宗務院から正式に皇帝の称号が贈られたのである。今回は、ウクライナとポーランド・リトアニア間で起こったフメリニツキーの乱(1648年から1657年)の結末から、大北方戦争(1700年から1721年)の最中、1706年のポーランド・リトアニア共和国の北方同盟の離脱、またはウクライナの指揮官マゼッパについて考察する。

 参考文献
・物語 ウクライナの歴史 黒川祐次著書 中央新書発行
・物語 ポーランドの歴史 渡辺克次著書 中央新書発行
・ウィキペディア フメリニツキーの乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B9%B1
・ウィキペディア 大北方戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
・ウィキペディア ペラヤースラフ会議(西暦1654年)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A6%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1654%E5%B9%B4)

 前回の日記 9/8(水) 独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(前編)英雄フメリニツキーの登場 9月10日で大北方戦争終結300年
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980288196&owner_id=32437106

          第1章 フメリニツキーの戦い

 フメリニツキーによって、ウクライナは、ポーランド・リトアニア共和国から事実上独立状態となった。政府の長であるヘトマン(ヘーチマン)は、ヘネラルナ・ラーダ(全体会議)を経て、決定される。コサック数の増加に従い、ヘネラルナ・ラーダの開催は厳しくなった。代わりにヘトマン、参謀部幕僚、連隊長から成るラーダ・スルタシン(長老会議)が開かれた。長老の座は、初め選挙によって決められたものの、世襲貴族化された。そもそも共和国側と比べて、ウクライナにおいて社会階層間ははっきりと決まっていなかった。農奴がコサック連隊に登録すれば、税の免除と共に、土地を与えられた。役職者を決める選挙権も持つ。軍務を果たせなくなると、土地を返還し、農奴へと戻る。一度コサックに加わったものは、土地に縛り付けられる農奴へ戻ることをひどく嫌った。必然的にコサックの数が膨れ上がり、ついに17世紀半ばには人口の半分に達した。

 写真=現ウクライナの首都キエフにあるフメリニツキー像 掲載元 世界雑学ノートより
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 1651年、同士を従えて、フメリニツキーが率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニア共和国軍と再び戦った。同年6月のベレチコの戦いにおいて、同盟を結んだタタール軍が、指揮官イスリャム3世ゲライの負傷により、撤退したのである。フメリニツキー自身が、自らタタールの方へ赴き、説得を図ったものの、命令無視にあう。権力の座につくフメリニツキーの周囲に、仲間のコサックの姿は少なかった。タタール軍はフメリニツキーを虜にして、陣営から離れていった。長居をしていては、敵の襲撃にあう。フメリニツキーを束縛して、故郷へ戻れば、兵の損失は少なくて済む。ベレチコ陣営の方は、絶対的指揮官を失って、混乱をきたす。7月10日、臨時の棟梁としてイヴァン・ボフーンが選ばれ、要塞化をして、籠城作戦に切り替える。共和国軍は、立てこもるコサック軍を包囲し、10日間に渡り発砲した。イヴァン・ボフーンの指示により、要塞化した敷地から夜半2万の軍勢と共に抜け出したのである。タタールの離脱で、共和国に追い風が吹いた。コサック軍は大きな被害を免れたとはいえ、敗北を喫する。

 ベレチコの戦いで勝利した共和国側のヤン・カジミエシ3世は、ワルシャワへ帰還した。中部ウクライナにミコワイ・ポドツキとヤヌシュ・ラジヴィウを派遣し、睨みをきかす。抵抗するものがいれば、容赦なく取り締まった。2人の貴族は、現地民の徹底抗戦にあい、統治の難しさを痛感した。肝心の棟梁フメリニツキーは、7月10日にタタール軍から解放され、ビーラ・ツェールクヴァ(ウクライナキエフ州南西部の町)にたどり着いた。2万5000人のコサック軍と、戦場に残っていた6000人のタタール兵がフメリニツキーに従った。

 写真=ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザの肖像画 掲載元 ウィキペディア
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ポーランド軍は、要塞での戦いが長引いたことにより、コサック軍に致命的なダメージを与えられなかった。現地民の激しい反撃にあい、戦争を続ける力を失っていた。9月28日に、コサックとの間で町名からビーラ・ツェールクヴァ条約を結んだ。敗戦したウクライナには明らかに不利な内容となった。コサックの宗主権はキエフに限定し、登録数を2万人までの縮小にくわえて、クリミア・ハン国との同盟解消が盛り込まれた。またフメリニツキーの外交は一切禁止され、キエフにカトリック系のイエズス会が戻ることを承認させたのである。フメリニツキーは、講和に応じ、一端戦場を離れたものの、独立国家としてウクライナを維持するため、新たに作戦を練り直した。

 翌1652年4月、コサック軍は、奴隷狩りを目的にオスマンの属国モルドバ公国へ出兵した。前年に結んだビーラ・ツェールクヴァ条約に反して、フメリニツキーは指揮官としてモルドバへ向った。状況を知った共和国側は、マルチン・カリノフスキが率いる1万2千の騎兵と8千人の歩兵を派遣した。コサック側は、共和国側の動きを見抜いている。バティーフ山の麓とラディージン町の間に陣を張った共和国の軍勢を、コサック・タタール同盟軍が取り囲み、意趣返しとばかりに惨殺した。マルチン・カリノフスキを初め、1万人余りの敵兵、羽のユサールと名づけられたドイツの傭兵隊も殲滅したのである。3000人のポーランド兵は生け捕りされ、斬首刑を受けた。

       第2章 ウクライナの運命を決めるペラヤースラブ協定について

 コサック・タタール軍と共和国軍側の戦いは長期戦の様相を呈する。フメリニツキーは、タタールのみの力だけでは足りないと考えていた。そこで、同じ正教会のモスクワ・ツァーリー国に足を向けた。ロマノフ家2代目アレクセイ皇帝に、ポーランド・リトアニア共和国との戦いにおいて、援助を申したのである。フメリニツキーは、ウクライナが独立した国家として歩むのは難しいと考えていた。同じ正教会で民族的にも近いモスクワの保護に入る代わりに、独立の維持の確約を求めた。登録コサックの数は上限6万人、ウクライナの貴族の権利を認める、モスクワ総主教の下に入るものの、干渉しない等である。


 フメリニツキーとアレクセイ皇帝との間で交わした協定は原本が残っていない。実際アレクセイ皇帝は、ウクライナを支配下におこうと企てていたともみられている。フメリニツキーは、今後のウクライナの行方を占う重要な出来事を伝えるため、1954年1月18日に、ペラヤースラウ(ウクライナの現都市)にて全体会議を開いた。フメリニツキーは、各連隊の12人の長官に、一時的にモスクワの保護下に入ることに理解を求めた。民族象徴の英雄の考えに、12人の長官から反対意見はでなかった。棟梁フメリニツキーと、12人の隊長の間で合意に達する。その日の午後、平コサックを相手に、フメリニツキーは演説の場に立った。急遽開くことが決まった会議に、コサックの各部隊への通達が遅れ、参加者は少数にとどまっていた。集ったのは、各部隊の長官や士官を中心に、平コサック10人を含め、200人程度だった。

 写真=ペラヤースラウ協定の模様 掲載元 ウィキペディア
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コサックの間でも、同じ正教のモスクワに対する信頼感が高かった。満場一致で賛成した。コサックが、ペラヤースラウ協定に批准すると、ウクライナの歴史は新たなステージに入った。1583年に終結したリヴォニア戦争の敗戦後、モスクワは二流国家に転落したのである。対等な関係を築けるはずだと考えていたといえる。事後的には、ウクライナとモスクワの間で結んだペラヤースラブ条約は、歴史の行方を左右する大きな転換点となった。モスクワ・ツァーリー国は、後にロシア帝国と名前を変え、ウクライナを支配したのである。20世紀に建国されたソヴィエト連邦にもウクライナはすっかり取り込まれた。1991年に独立して以降も、モスクワ・ツァーリーの後継国家ロシア連邦共和国の介入を受け続けている。フメリニツキーの判断が、後の時代まで影響を及ぼした。

 ウクライナのザポロージェ・コサックとモスクワ・ツァーリーの同盟軍は、1654年にポーランド・リトアニア共和国に宣戦布告した。後世の歴史家は、モスクワの軍隊が勝敗の行方を決めたことから、改名後の名前をとりロシア・ポーランド戦争と名づけた。またはウクライナ争奪戦争ともいう。1667年まで13年に渡るロシア・ポーランド戦争は、開戦当初からコサックとモスクワ同盟軍が破竹の勢いで共和国の領土に侵攻した。同年の春ポーランド・リトアニア共和国領のポロツク、ヴィデプスク(以上現ベラルーシ領土)、スモレンスク(現ロシア連邦の町)を占拠した。ポーランド側には、フメリニツキーに加担していたタタールを見方につけて反撃するチャンスをうかがうものの、状況は公転しない。

 劣勢の共和国側の状況を知り、ジグムント3世の時代から宗教問題で対立を深めていたスウェーデンのカール10世が、戦争に加わった。カール10世は、西暦1525年にルター派に改宗して、ポーランドの王冠に編入した旧ドイツ騎士団領のプロイセンの獲得を狙っていたのである。モスクワ側も、ウクライナの西ガリシア地方を我が物にしようとするスウェーデン側の魂胆を見抜いていた。争うポーランド・リトアニア共和国とモスクワ・ツァーリー国は、1656年10月にヴィリニュス協定を結び、休戦する。互いの共通の敵はスウェーデンである。

 フメリニツキーは、勝手に和平を結ぶモスクワ・ツァーリー国に憤りを感じずにはいられなかった。同年11月に、トランシルヴァニア、ワラキア、モルドバ、オーストリア、クリミア、オスマン帝国と外交関係を復活させ、スウェーデンに2万の兵を送った。モスクワとの外交を切ったものの、状況を打開できず、失意のうちに重い病にかかり、命を落とした。

 統率力と共に軍師としての才腕を発揮した彼は、後の時代ウクライナのナショナリズムの象徴的存在となった。現在彼の名を冠した町と州が出きた。東欧の巨大国家ポーランド・リトアニア、南のオスマン帝国、北のスウェーデンに囲まれたウクライナは、大国に揺るがされてきた。単独の国家として歩むには、厳しすぎた。
 フメリニツキーの死後、コサックは親モスクワ派と親共和国派に分断される。ロシア・ポーランド戦争の最中、1655年から1660年に起こった北方戦争において、スウェーデンが、モスクワとポーランドに勝利を収め、バルト海の覇権を確実なものにする。1660年にプロイセン領オリヴァで結んだ条約により、ホーエンツォレン家によるブランデンブルク選定候領プロイセンが、公国へと昇格し、ポーランドの主権から離れた。

 写真=プロイセンの拡張図 西暦1700年には公国から王国へ昇格 掲載元ウォーゲームで歴史に思いを馳せるより http://dsssm.blog.fc2.com/blog-entry-836.html?sp
 
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 ロシア・ポーランド戦争は1658年10月に再開される。亡きフメリニツキーの後ヘトマンの座についたイヴァン・ヴィホーウシキーが、タタールと同盟を再び結び、ポーランド側につく。1659年7月29日にコノプトの戦いでロシア軍を破ったものの、コサックから支持を得られない。同年9月に、先代のボルダン・フメリニツキーの息子ユーリ
ー・フメリニツキーにヘトマンの座を譲り、自らポーランドで暮らすことになった。戦争の方は、オリヴァ条約により、スウェーデンの脅威を取り除いたポーランド王ヤン・カジミエシ3世の方に見方した。1663年末、国土の東方に全軍を傾け、ウクライナを侵攻する。絶対的なヘトマン不在では、コサックは力を発揮できず、降伏してポーランドの方へ逃れた。モスクワ側は和平交渉に売ってでる。1664年から交渉を始め、戦争自体を小康状態にする。1667年1月30日にアンドルソヴォ(リトアニアのスモレンスク県の町、現在はロシア連邦)条約により、ウクライナを2つに分割することになった。ドニエプル川を基点に、右岸はポーランドに、左岸はモスクワに編入した。巨大な穀倉地帯ウクライナを失ったことにより、ポーランド・リトアニア共和国は崩壊の道を歩む。後世の歴史家は「大洪水」と呼ぶ。

写真=分割後のウクライナの地図 掲載元 コーカサスの歴史より https://kyjworld.web.fc2.com/ukkazaki.htm
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 共和国の支配下に入った右岸ウクライナは、西暦1700年にコサックの自治が廃止される。対照的にモスクワが収める左岸ウクライナは、一定程度自治権が与えられていた。コサックは、貴重な前線部隊として、後の大きな戦争で重宝される。


            <大北方戦争終結300年>

 
第1章 対スウェーデンをにらみ、北方同盟を形成する

18世紀の始まりと共に、冬でも凍らないバルト海の利権を巡る国家間の争いが起こる。ウクライナを分割したモスクワ・ツァーリ国とポーランド・リトアニア共和国は、1667年のアンドルソルヴォ条約締結以降、親密になりつつあった。1696年にポーランド・リトアニア王に戴冠したアウグスト2世は、モスクワとオーストリアの支援を得て、選挙を勝ち抜いた。1683年から1698年までの15年に渡った大トルコ戦争において、モスクワとオーストリア、ポーランドは、神聖ローマ帝国の皇帝レオポルド2世の呼びかけによって、同盟を締結していた。宿敵オスマン帝国を打ち破ったことにより、結束力を深めていたのである。

 写真=ピョートル1世 掲載元 掲載元 ウィキペディア
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 蹄鉄を曲げるほどの怪力の持ち主だったといわれるアウグスト2世は、バルト海の覇権を握るスウェーデンから領土を奪うことをもくろんだ。同じく不凍港の獲得により、貿易推進を掲げるモスクワのピョートル1世と利害関係は一致していた。デンマークのフレデリク4世、プロイセン王2代目フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世と同盟を結び、スウェーデンのカール12世に宣戦布告する。

 開戦当初、18歳のカール12世が率いるスウェーデン軍が、同盟軍を圧倒していた。西暦1700年7月、カール12世は、イギリスとオランダ艦隊に圧力をかけて、出動させると、ズンド海峡を封鎖するデンマーク艦隊に攻撃を仕掛けた。シェラン島に上陸すると、1万5000の兵をコペンハーゲンに派遣する。8月18日に、スウェーデン軍と戦う前に降伏する道を選んだデンマーク=ノルウェー軍は、トラヴェンタール条約を締結する。早々と離脱したデンマーク=ノルウェー軍は、以降スウェーデンとの武力闘争に参加しないことを約束させられた。目下の敵は、モスクワとポーランド・リトアニアの2国である。同盟軍は、スウェーデン領イングリアへ侵攻し、9月に4万の軍勢でナルヴァを包囲する。スウェーデンの守備隊が、徹底的に抗戦し、カール12世率いる本陣の帰りを待つ。11月30日、急遽海路を使ってエストニアに上陸したカール12世率いるスウェーデン軍12,000(または8,000)が、吹雪の中、包囲軍の本営を急襲し、退散に追い込んだのである。ナルヴァの戦いで負けたモスクワとポーランド・リトアニア共和国の同盟が、揺らいだ。

 写真=イングリアの位置 掲載元 http://www.dcstamps.com/north-ingria-1920/
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 1701年7月、カール12世は、モスクワ進撃を考えながら、共和国王のアウグスト2世を討ち取るため、リガ(現在ラトビアの首都、当時スウェーデン領)に向った。ドヴィナ川を強行突破して、ザクセン=ポーランド・リトアニア軍を倒すと、アウグスト2世に制裁を下す。1702年5月にワルシャワを占拠し、ポーランド議会(セイム)に踏み込み、アウグスト2世の退位を要求する。抵抗を試みるアウグスト2世は、7月19日に2万2000の兵を従えて、クリシュフの戦いに望んだものの、1万2000のスウェーデン軍に敗れた。1703年10月にトルニ要塞を落として、アウグスト2世を屈服させる。1704年7月、国王自由選挙が行われ、フランスのローレンヌ公スタニスワフ・レシチニスキが選ばれた。翌1705年10月4日に戴冠すると、11月28日にカール12世との間でワルシャワ条約を結ぶ。スウェーデンは、ポーランド・リトアニアを属国と化した。

 開戦した西暦1700年11月30日のナルヴァの戦いで敗れたモスクワのピョートル軍は、建て直しを図る。アウグスト2世を慕うポーランド・リトアニア貴族と1704年8月にナルヴァの条約を結び、同盟を強化した。早速アウグスト2世の救出作戦に動き、ポーランド議会(セイム)に介入するカール12世の動きをそいだ。1705年にはポーランドの大部分からスウェーデン兵を退散させたものの、アウグスト2西軍との合流は阻止される。1706年2月13日に、フラウシュタットの戦いで、連合軍は、スウェーデン軍の前に破れ、兵を引き上げざるをえなかったのである。カール12世によって廃位させられたアウグスト2世は、1706年9月24日にアルトランシュテット条約を結び、完全に戦争から離れた。デンマーク=ノルウェー、ポーランド・リトアニアが降伏したことにより、残る敵はピョートル1世のみとなった。

 写真=カール12世 ウィキペディアより
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 1707年、ピョートル1世は、カール12世に和議を求めた。カール12世側は、占領地のネヴァ川両岸とサンクトペテルブルクの割譲を要求する。ピョートル1世は、外国への出口となるサンクトペテルブルクを手放すわけには行かなかった。

 戦争は長期戦の様相となった。優勢のカール12世は、ピョートル1世にとどめを刺すべく、同年9月2日に駐留地ザクセンから4万4000人の兵を動員して、東へ向った。ヴィスワ川に差し掛かると、凍結するまで待機した。当時橋はなく、蓄えた食糧を消費しながら、過ごしたのである。翌1708年1月10日に、完全に凍ったヴィスワ川を渡り、2月8日にフロドナ(現ベラルーシのフロドナ州の州都)を占領する。スマルホニ(フロドナ州のいち都市)とミンスク(現ベラルーシの州都)周辺で冬陣に入った。フロドナを放棄したピョートルの狙い通り、カール12世は長期間滞在し、動けなくなった。スウェーデン軍は風土病に苦しみ、戦力を消耗したのである。兵士の回復を待ち、6月にようやく宿営地を発った。カール12世の頼みは、腹心のクールラント公国のレーヴェンハウプト将軍である。スモレンスクでの決戦に備え、春の間にクールラント公国(旧リヴォニア騎士団領、現ラトビア西部)のレーヴェンハウプト将軍は、補給品を集め、兵12,000を率いて、10月22日までにカール12世の本隊との合流を目指して移動していた。
1708年7月14日にカール12世はホロウチンの戦いでロシア軍を打ち破り、進撃を開始する。相対するピョートル1世は、スウェーデンのルートを予測し、街を焼き払い、補給基地をたつ。長期戦に持ち込み、戦況を変えたかったのである。兵の数では、ピョートル軍に分があった。レーヴェンハウプトの援軍は、カール12世軍との距離130kmまで迫った。物資の不足に苦しめられたカール12世は、レーヴェンハウプトの援軍との合流を諦め、巨大な穀倉地帯のウクライナへと転進した。もう一つウクライナに入った狙いがある。コサック首長イヴァン・マゼーパ指揮下のウクライナ軍は幾度かカール12世と協議していた。ここに至り彼はモスクワの保護下から離れるべく、正式にスウェーデンとの同盟を宣言した。

  若き皇帝カール12世が、北方同盟に加わった国々を次々と降伏させ、ついにポーランド・リトアニア王国まで介入した。腹心のポーランド新王レシチンスキを味方につけ、ウクライナのマゼッパと同盟を結び、ピョートルに最後の一撃を与えるべく、進軍を続ける。
 ところが、長い遠征の過程で疫病などにより、スウェーデン軍の体力は奪われ、情勢は大きく変わった。ピョートルは、焦土作戦などを通して、相手の補給基地をたち、態勢を整え、反撃のチャンスをうかがう。次回左岸ウクライナのヘトマンを勤めたマゼッパの生い立ちと共に、1709年のポルタヴァの戦いから1721年の終戦までの13年間を見ていく。
 
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