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2021年08月20日07:49

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クルマ0285 運命のイタズラ?(アルベルト・アスカリ)

前回、1920年代の最優秀ドライバーのひとりであるAntonio Askari(アントニオ・アスカリ)について触れました。文末に「アスカリ家にとって『魔の日』となる26日にレーシングカーで事故死、享年36歳。妻と2人の子供を残して」と記したのですが、全く同じことが、アントニオの息子Alberto Ascari(アルベルト・アスカリ)にもそのまま当てはまります。年齢も家族構成も、それに26日。だから「魔の日」なんですけどね。運命のイタズラ?

アルベルトは1918年7月13日にイタリアのミラノで生まれました。父親の影響でしょうか、早くからモータースポーツに没頭し、1929ないし30年(11歳)に草レースに優勝してから10年間はバイクに夢中でした。
1940年4月(21歳)に4輪に転向する機会が訪れました。1938年に観客10名が死亡する事故が発生したミレミリア(約1600kmの公道レース)は自粛され、替わりに用意されたGran Premio di Brescia(ブレシアGP。ブレシア〜マンチュア〜クレモナを結ぶ一周167kmの三角形のコースを9周する約1500kmの公道レース)に参戦したのです。ナビゲーターはGiovanni Minozzi(ジョバンニ・ミノッツィ)、クルマはAuto Avio Construzioni(アウト・アヴィオ・コンストルツィオーニ、フェラーリの前身となった自動車会社)のティーポ815スパイダー・ツーリングというオープン2座のスポーツカー(ゼッケン66)で、結果はエンジンを壊して(回し過ぎて)リタイアしています。
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第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)中はイタリア軍の物資輸送を担っていたアルベルトは、終戦後の1947年にマセラティでモータースポーツに返り咲きました。
翌1948年6月27日にマセラティ4CLTを駆ってサンレモGPで初勝利を上げて父親の同僚/旧友のEnzo Ferrari(エンツォ・フェラーリ)に見初められたアルベルトは、F1に1950年の創設初年度からフェラーリで参戦しました。そして、懇意になったLuigi Villoresi(ルイジ・ヴィロレージ)と共に フェラーリ・ランチア・マセラティの3チームと契約して勝利を重ねました。優勝回数は13回、表彰台(3位以内)回数は17回におよび、とてもここに書ききれるものではありません。
そこで年間順位を見てみましょう。

F1の始まりは1950年の世界選手権創設です。年間のレース結果に応じてドライバーに順位をつけるのですが、初年度はイタリアのGiuseppe Farina(ジュゼッペ・ファリーナ)がワールド・チャンピオンになっています。アルベルトは5位に。
2年目の1951年はアルゼンチンのJuan Manuel Fangio(ファン・マニュエル・ファンジオ)がワールド・チャンピオンになり、アルベルトは2位になりました。
そして1952・53年、アルベルトは2年連続でワールド・チャンピオンに。全17レース中15レースに出場し、優勝11回と破竹の勢いで勝ち続けた結果です。
1954年はフェラーリからランチアへ移籍します。しかしマシン開発の遅れによりランチア車でF1に出場したのは最終戦のみで、ブラブラしていた彼を放っておけないマセラティが2戦、フェラーリが1戦スポット契約しています。
もちろんF1以外のスポーツカー・レースでも素晴らしい結果を残していて、この年はランチアD24でミレミリアに優勝しています。

ところが1955年は様子が異なりました。1月16日のアルゼンチンGPではトップを走っていた22周目に事故でリタイアしましたが、これはよくあることとして、5月22日のモナコGPではマシンごと海中へダイブするという前代未聞のアクシデントに見舞われています。
この市街地GPは3.145kmのコース100周を競うレースで、アルベルトのランチアD50は、80周目にStirling Craufurd Moss(スターリング・モス)のメルセデスW196をかわしてトップに立った直後、コース脇の藁束を引っ掛けながら海へ飛び込んでしまいました。ブレーキが不調なのにシケインで飛ばし過ぎたのが原因と言われています。アルベルトは自力で浮上しましたが、鼻の骨を折りました。

そして運命の5月26日です。冒頭に書いたようにアスカリ家にとって「魔の日」26日でしたが、当時は誰もそんなことは考えもしなかったことでしょう。
モナコGPから4日しか経っていませんでしたが、3日後の5月29日に開催される耐久レース、1000km Monzaに参戦予定だったので、コースの偵察のため(鼻の具合を確かめるためにも)レースが開催されるモンツァ・サーキットに赴いたのです。
ここにはアルベルトとコンビを組む予定のEugenio Castellotti(ユージニオ・カステロッティ)も来ていて、乗車するフェラーリ750モンツァ(本稿0248参照)も持ち込まれていました。
アルベルトはモンツァ・サーキットを軽く流すだけのつもりだったので、ヘルメットなどは持ってきていませんでした。でも目の前にはフェラーリ750モンツァが。
そこでカステロッティにヘルメットを借りてコースイン。2周目、アルベルトは突如急ブレーキを踏み、マシンはコースオフして土手に乗り上げて宙を舞いました。マシンから投げ出されたアルベルトは救急車で病院へ搬送される途中で死亡しました。父の死をなぞるように、36歳で妻と2人の子供を残してレーシングカーで事故死。
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アルベルトが急ブレーキを踏んだ理由はコース整備員を避けるためだったと言われていますが、真相は闇の中です。
またアルベルトがクラッシュした場所は、Variante Ascari (アスカリ・シケイン)と呼ばれています。

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