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2021年08月13日07:49

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クルマ0284 スピンナーが(アントニオ・アスカリ)

本稿0088〜0092で、黎明期から1930年代前半までのアルファロメオのことを記しました。特に0089で取り上げたP2の活躍は出色なのですが、そのGPマシンを操った面々のうちAntonio Ascari(アントニオ・アスカリ)にフォーカスを当ててみましょう。

アントニオ・アスカリは1888年9月15日にイタリアのヴェネト州ヴェローナ県のSorgà(ソルガ)という村に生まれました。
家業は農産物卸業を営んでいましたが、20世紀になって内燃機を動力とするクルマやバイクが時折見られるようになると、アントニオ・アスカリは心底魅せられてバイク屋で修理の手解きを受けます。
そして一家がミラノに移住すると、Vecchi(ヴェッキ)という自動車会社にメカニックの職を得ます。平凡な4気筒車を作っていたヴェッキ社については特に記すことはありませんが、偶然同社に3歳年上のUgo Sivocci(ウーゴ・シヴォッチ、後のアルファロメオのワークス・チームでの同僚/ライバル、本稿0089参照)が居て運命的な出会いの場となりました。

1919年10月5日、第3回Parma–Poggio di Berceto (パルマ-ポジオ・ベルチェット)ヒルクライムが行われました。フィアットはS57/14という4.5リットルのマシンを準備していて優勝候補と目されていたのですが急遽エントリーを取り止めました。
ミラノでアルファロメオのディーラーをしていたアントニオ・アスカリは、フィアットからこのマシンを買い取ってヒルクライムに参加、全長53kmの極めて過酷なコースを平均速度83.275 km/hで駆け上り、2位に大差をつけて優勝しました。

3週間後、フィレンツェ北東のコンスーマというのは地区で開催されたヒルクライムにも優勝して勢いに乗るアントニオ・アスカリは、11月23日開催のタルガ・フローリオにも件のフィアットで参戦しました。この日は雨から霰(あられ)そして雪に変わる悪天候で、コーナーでスキッドしたアントニオ・アスカリは、ライディング・メカニックともども車外に投げ出され(シートベルトなんて無い時代です)大腿骨を折る大怪我を負い(メカニックは肋骨を骨折)、シシリア島北西部のパレルモ病院に7週間入院しました。

退院後(1920年2月)、アルファロメオから声がかかり(前出のウーゴ・シヴォッチの口添え?)、件のフィアットを売り払って心機一転、ワークス・チームに入りました。
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アントニオ・アスカリの活躍は目覚ましく、主な優勝だけでも
・1922年 日付不明 ガルッナート・ディナーレ・ヒルクライム
・1923年5月6日 フォーミュラ・リブレ(クレモナ・サーキット)
・1924年5月11日 パルマ-ポジオ・デルチェット・ヒルクライム(前出の過酷なヒルクライム。8回目のこの年は全長50.4km、アントニオ・アスカリの平均速度は89.012 km/h)
・1924年5月9日 フォーミュラ・リブレ(クレモナ・サーキット)
・1924年10月19日 イタリアGP(モンザ・サーキット)
・1925年6月28日 ヨーロッパGP(スパ・フランコルシャン・サーキット)
などがあります。特にP2のデビュー戦となった1924年のフォーミュラ・リブレでは、320kmのコースを平均158.16km/hで走り抜け、2位に大差をつけての楽勝だったと言われています。

ところがタルガ・フローリオでは運に見放されていたようです。
1919年は前述通り大ケガ、1920年も1921年も結果を残せておりません。1922年こそ総合4位(クラス優勝)でしたが、1923年は最終ラップでパンク(1周75kmという長丁場のMedio Circuito delle Madonie〈メディオ・チルクィート・デレ・マドニエ〉サーキット)し、同僚のゼッケン13のウーゴ・シヴォッチ(前出)に抜かれて2位に甘んじました。1924年もゴールまで僅か45mというところでスピンしています。

1925年7月26日、一ヶ月前の6月28日にベルギーのスパ・フランコルシャン・サーキットで行われたヨーロッパGPで優勝(前出)し、アルファロメオP2ともども鳴り物入りでパリ近郊のMontlhéry(モンレリ)サーキットのスタートラインについたアントニオ・アスカリのP2。
ここで開催されるフランスGPは一周12.492kmのコースを80周(約1000km)する長丁場のレースで、この日は小雨でコンディションは良くありませんでした。
スタートでいつも通りの猛ダッシュを見せ、2位以下をグングン引き離すアントニオ・アスカリのP2は、23周目のある高速コーナーで、ホイールのセンターロック・スピンナーをフェンスに引っ掛けてしまいました。ワイヤーで繋がっていた何百本もあるフェンスの支柱を約90mに亘って次々と引っこ抜いたP2は、最後はもんどり打って仰向けにヒックリ返りました。
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ドライバーの安全など考えられていなかったこの頃、ロールバーなんてあろうはずもなく、哀れアントニオ・アスカリはヒックリ返ったP2の下敷きになりました。直ぐに助け出されましたが、病院へ向かう救急車の中で死亡が確認されました。

アスカリ家にとって「魔の日」となる26日にレーシングカーで事故死、享年36歳。妻と2人の子供を残して。
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