大植英次は、やはり「大植英次」です。
京都 京都コンサートホール大ホール
京響第658回定期演奏会
大植英次指揮 京都市交響楽団
(コンサートマスター 豊嶋泰嗣)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)
ミュライユ:シヤージュ(航跡)
ドビュッシー:交響詩「海」
「海」の第3楽章がすべて。ここでの終結部直前、弦の波頭の上に屹立する管の「夜明け」主題、それがブルックナーのコーダが如くに、彼岸の光降り注ぐまでに昇華する・・・その痺れる様な快感。
思いましたね、ああ、これぞ「大植英次」だ、と。
この音楽に僕は痺れ、限りなく憧れ、それを享受する時間に耽溺することを、それこそ「渇望していた」、そんな日々のことを思い出す。そして思う、ああ、この人の音楽は、決して枯れることも、消え去ることもないのだと。
「大植英次」が、京響の輝かしいサウンドの衣装を纏って僕の前に立つ。願わくば、またその「姿」、この目に焼き付けることができますように。
(追記)
3曲とも楽譜を前においての指揮。「海」では眼鏡をかけなかった大植さん、他の二曲では眼鏡をかけて臨んでました。そのせいなのかどうなのか、ペトルーシュカは通り一遍の面白みのない指揮ぶり(レパートリーではないのかも、意外)、二曲目に至っては複雑なスコアを振り分けるのがやっと、という感じで、さすがに大植さんといえども、この代役は荷が重かったんだろうなあ、という感じを受けました。
二曲目の「現代曲」は、打楽器群のキラキラした響きと特殊奏法のスパイスで聞かせようとする、かつてよくあったタイプのもの。こういうのが、どれを聴いても同じように聞こえてしまうのが、結局コンサートピースとして定着しない最大の理由なんじゃないかなあ、と思ったりもしました。何か一つあれば十分ですもんね。
ペトルーシュカって、コンサートでいつ聴いたんだろう、と思うほど僕にとってピンとこない曲。帰ってきて調べると、2006年にゲルギエフとPMFOで、2014年にドミトリー・リスと京響で聴いているらしいのだが、全くといって憶えていない。今日の演奏も、きっと忘れちゃうんだろうなあ。京響のサウンドは素晴らしく華麗で、聴いているときはそれなりに楽しみはしましたけどね。
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