通常、アニメ作家は、自分の作家性を軸と基盤にしながら、テーマ・内容の複雑さは、社会性の中で編み出していく。宮崎駿、富野由悠季、押井守・・・。しかし庵野氏は、それを個人的な妄想のようなもので埋め尽くしていく。
それだけなら、特異な映像作家で終わる。実写で言えば塚本晋也のような、ドキュメンタリー作家でいえば原一男のような、作品を作れば世界的な映画祭で上映されたり、表現の極北と言われるような名作になるが、マスの支持は得られない。けれども庵野氏は、社会現象を引き起こすようなヒットメーカーとなった。
それは庵野氏が、オタク、アニメファン、中二病、境界線、引きこもり、ADHD障害などなどといった現代的な諸現象のど真ん中に立つ人物であり、それをそのまま作品世界に持ち込んだ人だから。宮崎、押井、富野といった作家たちは、近代的な文脈の延長上にいるが、庵野氏は極めて現代的だ。それは病的で幼児的で歪んでいて攻撃的で解決されず迷宮的で・・・といった形容詞が続く世界。それを表に出すことが憚られるようなものを彼は前面に出し、全面的に作品化する。
それができたのは、彼だけだ。もし彼がいなかったら、新海作品も、細田作品も、もう少し(あるいはかなり)違ったものになったかもしれない。
今回庵野氏は、繰り返しの物語として、エヴァンゲリオンを終わらせなければならなかった。形としては新劇場版の4部作の完結編を制作し、公開したことで、それは成し遂げられた。
だが、彼はラスト(マイナス宇宙でのメタ演出部分)で、自分が愛するものたちを描き、それに取り囲まれ、そうすることでしか、完結編を終わらせられなかった。
物語が語られつくした後のラストシーンは、彼が生まれ育った地元駅のホーム。向こう側には、エヴァの主人公たちと、完結編の主要な舞台になった村がある。ひとつの解釈では、それらに対して別れを告げ、主人公シンジはマリと共に現実世界に帰ってきた、となる。だが、実はこれは、いまだにそのアニメ的世界と自分(庵野氏)が地続きであり、切れていないことを現してもいる。いつでもそこに帰れることを示している。駅のホームで乗り換えるように、簡単に。
その証拠に、エヴァの後も、庵野氏は、実写映画で「シン・ウルトラマン」を作り、さらに「シン・仮面ライダー」を監督する。
ウルトラマンとエヴァンゲリオンは、M78星雲などを経由して、直接つながっている。
つまり庵野氏は、エヴァ的世界がまったく終わっていないことを、むしろ強烈に自分はエヴァ的世界にいまだとどまり、その王国の王であることを、今回の新劇場版完結編で、示し切っている。
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