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2021年04月05日05:26

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全共闘から浅間山荘への流れ

1960年は日米安全保障条約の承認をめぐる過程でした。日本が第二次世界大戦で敗戦して二度と戦争はしませんと反省をもとにした平和憲法にもかかわらず、東西対立が激しくなる中で、米国への軍事協力になる安全保障条約を承認することに、強行に反対をしました。 何よりも日米安保反対の運動を発展させたのは、ベトナム戦争でしょう。

日米安保で、政治権力に反対し、安保承認の反対を目指して、それがかなわなかったことに不満を持ち続けていました。 1965年に始まったベトナム戦争に対する日本政府の態度への批判も含めて、反戦運動が広まっていくのです。米国への協力いう視点から見れば、日韓条約の締結もこれに拍車をかけることになります。

この反戦運動は、基地問題とも絡んで、学生だけでなく一般人の関心を呼びました。首相の訪米に反対する羽田空港での闘争や佐世保へのエンタープライズの入航反対闘争なのでは、近所の主婦が、学生に対しておにぎりをつくり、応援をする姿が見られました。学生の反乱に対して国は、その権力を行使し、大学闘争への国家権力介入を国会で決議した。

権力により抑えこまれた学生たちの一部は、自分たちの思想を実現するために、よど号ハイジャック事件、連合赤軍リンチ事件、浅間山荘事件を引き起こすことになるのです。平和を求めるという気持ちで、この運動を行ったことには納得するところもあるのですが、平和を求めていたにも係らず、死者を出すような結果になったことにはとても残念です。

その背景にあったものは、何だったのだろうか。それ以前から運動としてあった思想的影響によるものがあると思います。つまりマルクスの思想です。マルクスは、奴隷制、封建制、資本主義と続いてきた人間の歴史の中で、上部構造であるイデオロギーの土台となっている生産力が、拡大していくと、それまでの社会構造では、対応できず、革命が起きて、新しい段階になっていくという思想を打ち出しています。

これを基盤として、社会が飽和状態になってきたときに変革を起こすには、革命的な行動が必要であるという思想があったと思われます。安保や、首相の訪米に反対する羽田闘争、佐世保エンタープライズに入航に反対する闘争は、平和を求める気持ちがあったと考えられます。この闘争の中心となっていたのが、学生であったということです。

よど号ハイジャックについては、自分たちの思想を実現するため、ハイジャックという手段を用いました。しかし、連合赤軍リンチ事件や浅間山荘事件について考えてみると、自分たちの思想が社会から孤立してしまいました。

ある思想を前提として集団が作られると、そこに拘束力が働き始め、その思想や集団の熱狂度が強いほど、一個人に戻れなくなるのではないだろうか。とくに孤立すればするほどその傾向は強まるのかもしれません。そして集団の中で、起り得ないことを集団で起こしてしまうのでしょう。

浅間山荘事件での連合赤軍と言うのは、国内で過激的な活動を続けていた革命左派と日本赤軍がひとつになり「銃による革命」あげ、猟銃店などからライフルなどを強奪し軍事訓練を続けていました。1972年2月、群馬県で連合赤軍のアジトが発見されて森恒夫、永田洋子、植垣康博というリーダー格の8人が逮捕されました。

逃げ続けていた連合赤軍の残り5人の男性が、軽井沢にあった保養施設・浅間山荘に押し入り、ライフルを構え管理人の妻を人質に立て籠もってしまったのです。これに対し機動隊約750人が山荘を取り囲み、銃撃戦を繰り返したのです。

浅間山荘以前には、連合赤軍内部で規律違反・スパイ行為をしたとして「総括」と言う名目で14名(男性9・女性5)のメンバーがリンチで殺されていた事がわかりました。その遺体は、群馬県の山中に12遺体、千葉県の印旛沼にも2遺体、埋めていて、その殺されたメンバーの中には妊娠中の女性もいて、革命の名の下に人命を軽く見ている事に世間は驚きました。

そのリンチを指揮したのは連合赤軍の最高幹部・森恒夫が中心で、17人が逮捕され森恒夫は獄中で自殺を図り、永田洋子と坂口弘が死刑判決を受け、植垣康博が、刑期を終えてテレビ出演していました。 浅間山荘事件でリーダー格だった板東国男は、1975年クアラルンプールで起こった、日本赤軍によるアメリカ大使館占拠事件で釈放になり、国外逃亡し、パレスチナへ渡ったのです。

この時、釈放のリストには坂口洋も入っていたのですが坂口洋はそれを拒否したのです。坂口洋は個人的に観て一番、日本国のことを考えての行動だった思っています。この時代の中で闘争が目指したものは、一つにはそれぞれの達成目標であったのですが、その根底にあるものは、権力への批判でした。

何らかの欲求不満状態があって、それを権力による環境整備によって、それが思うようにいかない。その欲求不満状態が何であるのかよく理解できませんが、権利や自由ということが連想されます。闘争が収束していった背景には、権力に対して権利や自由を与えてほしいと要求する、というような考え方があったのではなかろうか。

そして、それがかなわないことを経験して、人々は権力が作る社会の中に戻っていったのかもしれない。ただ、ここで、間違っていることは、権利や自由は、与えてもらうものではないということです。全共闘運動の結末がなぜあのような狂気の出来事となったのかということに明確な答えを出せたとは思えません。

考えついたことは、人間が二人集まれば、そこに芽生えるのは、程度の差はあれ、愛情か憎しみなのかもしれないということです。下記のひとりひとりの本を読んでみるとその時の個人的な感情がわかるような気がしました。

語られざる連合赤軍     高橋 檀  彩流社
兵士たちの連合赤軍     植垣康博  彩流社
永田洋子さんへの手紙    坂東国男  彩流社
私生きてます        永田洋子  彩流社
日本赤軍派         パトリシア・スタインホフ著  河出書房新社
連合赤軍あさま山荘事件   佐々淳行  文藝春秋
十六の墓標(上)      永田洋子  彩流社
十六の墓標(下)      永田洋子  彩流社
続 十六の墓標       永田洋子  彩流社
あさま山荘1972(上)    坂口弘  彩流社
あさま山荘1972(下)    坂口弘  彩流社
続 あさま山荘1972     坂口弘  彩流社


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