思わず、前回、尾高さんのブル8を聴いたときの日記を見直しました。
大阪 フェスティバルホール
大フィル第545回定期演奏会
尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
(コンサートマスター 崔文洙)
ピアノ独奏 北村朋幹
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491
ブルックナー:交響曲 第9番 ニ短調(コールス校訂版)
尾高さんのブルックナーは、2004年1月に聴いた9番が最初、そして監督になってからは今回が二回目。8番を聴いたのが2018年の4月。その時、僕はこう書いている。
「今日のそれは、「自然に」「流れるように」「この曲が内包するエネルギーを解放した」、まるで「人がそこに存在しないかのような」演奏と表現することができるかもしれない。(中略)正直に告白してしまえば、1楽章から2楽章にかけてを聴いていたとき、ぐすたふくんは、「なんて当たり前の演奏なんだろう」と思っていたんです。(中略)ただ、その「当たり前」が、時間が進むにつれて凄みを増していく。こうでなければならない、という圧倒的な存在感を、そして強固な意志を放ち始める。」
今日も、やはり同じような印象。2004年の時のブル9は、状況が状況(朝比奈御大没後初めてのブルックナー、そしてまだ大植監督就任1年目のシーズンで、新監督はまだブルックナーを振っていない)だったこともあり、特別だったんだなあ、という思いを強くする。
演奏は、驚くほど整ったもの。ブラスが微塵も破綻を見せないことをはじめ、16型ストリングセクションも盤石の響きを聴かせる。音楽の進みは最初から最後までを見通した堅牢な構成感で組みあがっていて、各所の聞かせどころは周到に用意されている。1楽章コーダの黙示録的なカタストロフィや、3楽章冒頭での極限まで拡大されたトリスタン動機の慟哭など、思わずぞくっとするほど。
ただ・・・どうだろう、今日の演奏の中に、僕は2004年の時の(今日よりははるかに傷の多かった)演奏にあった、彼岸へと繋がる宗教性のようなものを実感として感じることはできなかったように思う。それは、僕の問題なのかもしれないが。
尾高さんのブルックナーは、やはりがちっとした「様式感」を強く感じるのだが、9番に関しては、この曲自体がある意味「音楽」として崩壊の際まで行ってしまっているので、
その「様式感」も崩壊の際までいかないものか、そこに何か人智を超えたものを感じられないものか・・・そんな風に思ってしまうぐすたふくんが、いささかおかしいのかもしれないけれど。
前半のモーツァルトのハ短調のコンチェルトも、ソリストがモーツァルトに窮屈な思いをしているように感じて、やや欲求不満。むしろ、アンコールに弾いた幻想的な小品(曲名は確認し忘れた)の方が、彼の飛翔するようなロマンティシズムの魅力を堪能できたように思います。
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