今年もよろしくお願いいたします。
今年は、積み残してきた課題をクリアーにしたいと思います。
1 証拠や論証は意味がない。
コロナが問題となっています。クラスターが起きますが、それによって感染したという証拠はありません。高い蓋然性があるだけです。
ですから、コギトなどはほとんど意味がありません。
比較文学も同じです。エビデンス、証拠、証明がないという却下の仕方をするのではなく、蓋然性が低いという却下の仕方をするべきです。
今の古典研究は、書誌学的な詳細な研究をし、その挙句に凡庸陳腐な結論を付けたイメージです。
だが、中国の×という本と、日本の○という本が似ているからといって、×の影響を○が受けたという証明になりません。
たとえば、私が作家だったとします。私の指導教授は、九○の会事務局長の小森○一先生です。だから、手筋というか技が似ているところがあります。似ているというよりは、院生時代に真似をしましたが、正確かどうか。。後世の人が、そういう事情を調べ上げて、「やっちゃんは、共産党員だ。この作品のテーマは、師弟愛だ」という、噴飯物の結論を付けるようなものです。
2 1から考えると、『金剛般若波羅蜜多経』の言説は、普通に読むべきです。
「衆生からみたら衆生はいるのである。菩薩からみたら衆生はいないのである。だからこそ、衆生と名付けられるのである。菩薩とは、信心を持った衆生である」
(鳩摩羅什の漢訳を私が訳したもの)
ならば、
…ある衆議院議員がいた。ソイツは、小学校の時に生徒会会長選挙に落ちたことを忘れているだろう。生徒会会長選挙に落ちた子も、その時に代議士になりたいという志を持てば、当選した生徒会長のことなどどうでもよくなるだろう…
というふうに解釈するべきです。
それができていないのが、経典読解の停滞です。
幸い、私は坊主でもなし。しかも、「××名誉教授のお気入りで、〇〇大閥だ」という紐付きでは、全くありません。珍しいパターンだと思います。だから、暴れても人を巻き込まない天下の素浪人。暴れましょう。
3 局所の論理と全体の論理が違う(往々にして逆さまになる)という真理を、『金剛般若波羅蜜多経』から探す。
景気、有限集合と無限集合の数の大小関係…
探すといっても、2がそうかもしれません。
4 2、3を使い、いよいよ…の最終解釈に入る。
いわば、局所の論理に拘泥していた主人公らが、認識のレベルを上げるそのプロセスを追います。
5 忘れられている部分集合の発見
これは、昨日、行ったことです。
全体集合 U あるべき学力全て
部分集合 A 現行の受験その他
今まで、UとAの関係だけで語られてきました。
本当は、BやCもあるのではないか…ということです。
今年も、よろしくお願いいたします。
今年のご多幸を心よりお祈りいたします。
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