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2020年12月13日15:27

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窪俊満(クボ・シュンマン)の訪問

 宣長の「負けじ魂」に驚いた人がいる。
 窪俊満、別名・南陀伽紫蘭(ナンダカシラン)は、
江戸に住む浮世絵師で狂歌師。絵を楫取魚彦、
北尾重政に学び、穏やかで清楚な美人画で知られる。
寛政8年(1796)11月13日に鈴屋訪問。その時の短冊が残る。

 「角もじの いせとしいへば かみ国の
             ひとの心は まけず玉しひ  俊満」

【大意】
牛の角に似る文字「い」、いのつく国「伊勢の国」と言えば
昔から「神風の伊勢の国」と言われて他の国に比べても一段上に
あると思っていたが、なるほど住んでいる人(宣長)も言うことが
気宇壮大じゃなあ。 きっと、日本は万国の冠たる国だ、という
発言に江戸のバランス感覚のあると自負する俊満は驚いたのだろう。

姓は窪田または窪。通称易兵衛または安兵衛。画号を窪俊満と称した。
他に尚左堂(これは俊満が左利きであったことによる号)とも号す。
戯作号は南陀伽紫蘭、黄山堂、狂歌号・一節千杖、俳号・塩辛坊[1]。
宝暦7年に江戸に生まれる[2]。幼いとき父親を失い、伯父によって
養われた。小伝馬町、亀井町、神田富松町などに居住した。
初めは楫取魚彦に学び、春満と称した。安永末頃に北尾重政門に入って
北尾を称す。天明2年(1782年)に楫取が亡くなると、画名を俊満と
改めた[注釈 1]。

作画期は安永中葉から文化末年までに及ぶ。安永8年、北川豊章(歌麿)
作画の黄表紙『通鳧寝子の美女』(かよいけりねこのわざくれ)を
黄山堂の名で発表したのが初作であった。それ以降黄表紙10部、
洒落本3部を描いた。画風は師の重政風というよりは鳥居清長風の
美人画を描いており、俊満の地味な美人画は清長や歌麿の台頭にあって
目立たずに美人画の作品は少なく、むしろ肉筆美人画が多くみられる。
また紅嫌いの作品が良く知られている。俊満の紅嫌いは錦絵のほか、
肉筆浮世絵にもみられる。特に狂歌摺物を得意とし、その点数は
500点に及ぶという。

寛政以後、石川雅望に狂歌を学んで判者になっており、文学にも親しみ
、狂歌摺物や版本の作画に活躍したほか沈金彫りや貝細工などにも
長じた多芸な人であった。享年64。
墓所は台東区蔵前の榧寺(旧名・正覚寺)、法名は善誉尚左俊満居士。
墨田区東向島の法泉寺境内には、窪俊満の歌碑が残る。

(墨田区登録有形文化財)
 窪俊満「故郷の」の歌碑  所在 墨田区東向島三丁目八番一号
 江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(一七五七?一八二○)を偲び、
彼の友人たちが文政四年(一八二一)六月に建立しました。
正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも 
やどるかと おもへば月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。
 裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が
刻まれています。
書は秋元廣丸、碑刻は窪世祥が受け持ちました。
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