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2020年10月31日07:38

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短期連載ブログ小説 淋しい生き物たちーねぇおじーちゃん 第20話

「今日は悲しいお知らせがあります」
 担任の先生が朝の挨拶のあと、そう言ったのは、その翌日のことだった。3月2日。ぼくの誕生日だった。圭子さんは13歳になる前の日に、ひな祭りの前日に、静かに息を引き取ったのだ。
 圭子さんは急性腎炎という病気だったそうだ。そんな病名は初めて聞くものだったけれど、ぼくはその病名を一生忘れないだろう。
 若かかったので予測よりは長くもったということだったけれど、入院した当初から退院の期待は薄かったらしい。
 あとで葉子さんに聞いた話だが、あの日、つまりぼくが自転車で病院まで行った日だけど、圭子さんは虚ろな意識の中で、「ありがとう」と言ったのだそうだ。そしてその日のうちに圭子さんは旅立ったのだった。

 告別式にはクラス全員が参列した。大人になって仕事柄何度か、十代の子どもの葬式にめぐり合わせてしまったことがあったけれど、子どもを送る儀式というのは残酷なものだ。たいてい同級生もお別れにくるのだけど、子どもは辺りをはばからずに泣く。親も年老いた親族の死とは比べようもない我が子の喪失に取り乱す。同席する人たちもいたたまれなくなってしまうのだ。このときもそうだった。女子たちが声を挙げて泣く。親御さんもたった12歳で亡くなった我が子を諦めきれず号泣する。参列した大人たちも涙をこらえきれない。男子たちも泣いた。もちろん、ぼくも泣いた。
             フォト
 祭壇の上の遺影は、制服の襟元を覗かせている、あの圭子さんの、ぼくが憧れたやさしい笑顔だった。それはまるでぼくに向かって「いいのよ」と言っているみたいだった。
「いいのよ」、それは例えばぼくがわざと忘れた消しゴムを借りて「ありがとう」と返したときに、書き物をしている圭子さんの机にうっかりぶつかって「ごめん」と謝ったときに、ぼくがつまらない冗談を言って葉子さんを怒らせたのを見られてちらっと舌を出したときに、いつも圭子さんが返してくれるやさしいひと言だった。
 どうしてそんな笑顔の写真を飾るんだ。もっと病気でやつれた、見る影もない、あの誰よりも素敵な圭子さんなんかじゃない写真だったらよかったのに。あの圭子さんの笑顔に、圭子さんに、もう二度と会うことはできないのだ。それはただただあまりにも理不尽なことだった。ぼくはそのときまだ身近な人の死を経験したこともなかったから、その巨大な喪失は生まれて初めて体験するものだった。
 あのとき圭子さんはあのときのぼくの一体何に、「いいのよ」と言ってくれたのだろう・・・・。 

(挿絵 匿名画伯)

【作中に登場する人物、施設等にモデルはありますが、実在のものとは一切関係がありません】
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