昨日、知人と話していて改めて思った。
仮説が正しかったか誤っていたかなんてのは
実行してみないと分かるわけがないので、
実行できる人か否かが最大の分岐点である、ということ。
結果の当たり外れは「運」でしかなく、一種の不可抗力だし。
当然のように皆がそれぞれ色んな諸問題を抱えている中で、
それら問題を動けない理由にふりかざすよりも
できる範囲でも試してみられること(或いは人)の方が
「社会」というシステムの上では有意義なハズだよなあ、と。
わたしは既にそこに背を向けてしまっているのでまあいいのだが、
そうでない、世間でちゃんと「実行」している人たちは
もうちっと社会や神から祝福されてもいいよなあ。
健康体くらいは自然に与えられていてもいいんじゃね?とか。
「祝福」と擬人化して言うと変な宗教的誤解の元になるが、
まあそういう幸運不運も
「自然」が有する原理的な確率分布に従って生じる事象なので、
実行できる人たちの約半数が失敗を選んでしまうことや
直接/間接関わらず何かとついていないことが起こるのも
いかんともしがたいのがまた歯がゆいもので(苦笑)。
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