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2020年06月12日16:56

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飛沫感染防止距離

ソーシャルディスタンスという言葉は聞かれるようになった。
なんで日本では、述語はカタカナ外来語のまま普及するのだろう。
意味がきちんと把握されないまま、言葉が広がってしまう。
まるで、日本人は言葉の意味をきちんと把握しなくていいと思っているみたいだ。

訳語で、社会距離と言われる。
じゃあこれで意味が分かったかというと、こりゃまたよく分かんないことにはかわりない。
どうせわかんないんだからカタカナのまんまでいいのか。そうか。

人と人との距離に、4段階有る。
ということを、心理学だかなんだかの世界で言う。
どうやら、60年代にアメリカの文化人類学者が提唱したことらしい。
文化人類学者が言ったのだから、人と人との距離感には
文化によって非常に差異が有ることも承知の上で定義したのだろうと思う。

あらためて確認すると、4段階は以下のようである。
密接距離 intimate distance 0-45cm
個体距離 personal distance 45-75cm
社会距離 social distance 120-350cm
公共距離 public distance 3.5m, 7m〜

密接距離は、手を伸ばせば触れる距離。
知らない人がここまで近付くと、イヤだ。

個体距離は、相手の表情を見やすい距離。
親しい人と会話する時の距離感だ。

社会距離は、手の届かない距離。
知らない人と会話するならこれくらい離れていたい。

公共距離は、一対一ではなく、複数の人と対面する距離。
個人的な関係ではなく、公的な場面ということになる。

それぞれの距離は更に、近い側と遠い側に二分割される。

密接距離のうち、0-15cmは抱きしめられる距離、15-45cmは手で触れられる距離。
個体距離のうち、45-75cmは相手をつかまえられる距離、75-120cmは両方から手を伸ばせば届く距離。
社会距離のうち、120-200cmは知らない人と一対一で込み入った話のできる距離、200-350cmは複数で会話できる距離。
公共距離のうち、350-700cmは複数の人に話しかけられる距離、7m以上は講演会などの距離。

もちろん数字は目安であり、
環境の違いや文化による差や、個人差は大いに有る。



私は、人混みは好きではない。

けれど、人混みの中を歩くことはわりと得意なほうだ。
新宿駅の構内で、行き交う人の間から自分の行きたい方向に進むルートを見極めて
人をかわしてスイスイと歩く。

この時、肩や荷物などがすれ違う相手とぶつからないようにする。
ぶつからないようにできれば良いので、ギリギリですれ違うことも多い。

一方、地元の住宅街の、4メートル足らずの幅の道で、
向こうから来る人が私のすぐわきをすれ違って行くと、
ひどく違和感が有る。
もっと離れたところをすれ違って欲しい。
不快だし、少し怖い気持ちもする。

同じ、他人とのすれ違いでも、周りの状況でずいぶん心持が違うものだ。
混雑している所だったら密接距離ですれ違うことができるが、
広い所だったら個体距離に入られても違和感が有るわけだ。



密接距離が侵される状況の代表格は、やはり満員電車だろう。
胴体がぴったりと赤の他人と接したりする。

すれ違いでもイヤな気持ちになったりすることを考えると、
満員電車というのは実に異常事態だ。



反対に考えたら、
親しい相手、信頼している相手とは、距離を詰めたいものだ。
触れることによって、安心感を得られる。
近年の研究では、そういう時にオキシトシンというホルモンが分泌されることが判明している。



コロナ禍の今、人と人との間の間隔を取る必要が有ることに、
この、ソーシャルディスタンスという言葉を流用しているわけだが、
私は流用に反対だ。

今、6フィートだとか2メートルだとかの間隔を空けるべき根拠は、
飛沫感染を防ぐという意味にある。
ソーシャルディスタンスという言葉は、社会心理学的な意味を持った用語である。

言葉が既に持っている意味合いをうやむやにしてしまうし、
距離をおくべき物理的な根拠はあいまいになる。

更に今後、意味が混ぜこぜで使われるようになったら、
厄介なことになりそうだ。



ソーシャルのためのディスタンスではないのだから、
飛沫感染防止距離は、飛沫感染防止距離と呼ぼうよ。
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