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2020年04月14日05:39

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佐賀紀行6 國相寺 / 願正寺

 3月22日日曜日は佐賀駅から南方へ向かい、城下町巡りを行いました。
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 佐賀駅東南に佐賀市役所があります。
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 市役所の花壇ではアネモネが咲いていました。
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 市役所東通りを南下して行くと、やがて日蓮宗安性(アンショウ)山國相(コクソウ)寺に到着です。
 https://www.google.co.jp/maps/@33.2593049,130.3002478,17z
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 明暦年間(1655〜57)に等覚院日序上人が小城(オギ)藩領の勝妙寺から退く際に隠居寺として建立したのが始まりです。明治42(1909)年の火災で本堂を焼失して史料が失われてしまったため、詳しい由緒は不明です。
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 昭和35(1960)年に鉄筋コンクリート造の本堂再建が再建されました。当時としては極めて斬新なデザインで、インドの仏舎利塔とギリシャのパルテノン神殿の造りを融合させた物です。
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 平成29(2017)年、松島正英(マツシマショウエイ)住職が世界三大荒行と呼ばれる日蓮宗の百日大荒行を10回重ねる「千日行」を成し遂げ、九州では四人目の阿闍梨(アジャリ)号を獲得しました。
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 國相寺境内には大きな楠〔佐賀市指定天然記念物〕があります。
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 高さ18m・根回り20m・枝張り29mで、佐賀市内では与賀神社の楠に次ぐ大きさです。樹齢は約500〜800年と推定されます。佐賀市内には『肥前国風土記』の伝承に見られるように、楠の巨樹が非常に多いのです。
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 この楠は根元の部分が極度に大きくなっているのが特色となっており、最近はパワースポットとして人気が出ているそうです。
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 寛政年間(1789〜1801)頃から樹上にお稲荷様が祀られるようになり、現在は楠森経王稲荷大明神(ナンシンキョウオウイナリダイミョウジン)として御堂に祀られています。
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 國相寺から南下し、佐賀城外堀の役割を果たしていた十間堀(ジュッケンボリ)川に架かる呉服橋を渡ると道路を挟んで二つの寺院が並び立っています。
 その東側の寺院が浄土真宗本願寺派宝海山願正(ガンショウ)寺です。
 https://www.google.co.jp/maps/@33.2552676,130.3023078,17z
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 慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦の際、西軍に与していた鍋島勝茂(ナベシマカツシゲ)は西本願寺の准如(ジュンニョ)上人の取り成しで許されました。そこで勝茂が恩義に報いるため、同年末に熊谷寿閑(クマガイジュカン)を開山として創建したのが当寺です。
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 勝茂は佐賀藩内の真宗寺院を全て西本願寺を本山とする本願寺派とし、当寺は法頭職(ホウズシキ)として藩内真宗寺院を統轄し、肥前国総道場と呼ばれました。末寺からは開山番料(カイザンバンリョウ)と呼ばれる上納金を徴収する権限も与えられていたのです。毎年、西本願寺の学林から学僧を招いて宗学講座が開かれており、その学寮が明治11(1878)年創建の振風教校(シンプウキョウコウ)に発展、さらに龍谷中学校となりました。
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 山門は明治45(1912)年の再建です。
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 本堂は元禄15(1702)年建立された壮大な物で、寛政12(1800)年に呉服町へ本陣が設置されるまでは、称念寺と共に幕府長崎奉行等の宿舎としても利用されました。明治16(1883)年に開かれた第一回佐賀県議会の議場ともなっています。本堂右側の庫裏(クリ)は奥の間を残して昭和9(1934)年に改築た物です。
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 元禄9(1696)年から当寺の鐘楼が城下への時鐘として用いられ、城内にまで鐘の音が響いていたそうです。現在の鐘楼は明和5(1768)年の再建です。
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 境内では紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)が満開になっていました。
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 当寺には、副島種臣(ソエジマタネオミ)の書〔佐賀市指定文化財〕があります。
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 参議・外務卿・枢密院副議長・内務大臣等を歴任した副島種臣伯爵は、蒼海という号を持ち、詩書に優れた人物でした。書は余技と称していましたが、当時の一流の書家と比肩される腕前でした。本書は明治26(1893)年、65歳の種臣が願正寺裁松上人13回忌法要のための追悼詩です。
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《続く》
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