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2020年04月04日01:32

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呼び出されて溶接フレームの話し!

■呼び出されて溶接フレームの話し!

ある日曜日我孫子のフレーム屋さんの社長に一緒に手賀沼を走ろうと誘われた。日本一パッションのある人だった。ある意味ひらめきの人で、強引なところもあったが、ここのフレームで戦っている競輪選手も多かった。ラグ付きフレームの仕上げのシャープだった。

この人もチネリのスーパコルサに魅せられた世代だ。ロードフレームの作りを見ると、あっ!、ここスーパーコルサだと思わせるような集合ステーのフォルムを思わせる部分がある。あれを初めて見たときには、日本製のロードバイクが惨めに見えたよ、と言っていた。

次にインスパイアを得たのが、チネリのレーザーのTTバイクだったという、だからヘッドチューブ周りのフィンの美しさに固執した。日本のチューブメーカーがエアロチューブを製造するようになって、シマノが エアロダイナミクスを意識したデュラエースaXを発売したら、徹底的にバイクのエアロダイナミクス化を追求して試作モデルを作り込んでいた。

次に社長が夢中になったのは、実用できる超軽量ロードバイク作りだった。当時としては超軽量の6kg台の前半だった。フレームチューブはイシワタの015という0、5mm肉厚の超軽量モデルだった。ラグもショートポイントに削り込まれていた。パーツもチタン合金製パーツやアルミ合金製パーツをフル動員していた。

ここの工房は台湾製のロストワックス製法のイタリアンカットラグやエンドや小物を採用していた。一番番頭のビルダーは今はマキノブランドを率いている牧野氏だ。競輪選手への供給も多いが、アルミフレームやカーボンフレームも手がけていた。

社長には、行きつけのお寿司屋さんへ連れて行かれて、深夜までバイクの話で盛り上がって、空が明るくなっては帰るとか、そのまま手賀沼のコースを走ることになったものだ。走り出すと元ロードレーサーだったから、当然負けず嫌いで、立ち上がり加速のたびにダンシングの腰を落とさずに前を走ろうとするのだ。

ベルギーで走っていた選手のサポートの件で、ニューサイの編集長の息子さんと一緒に、社長さんに、来年のサポートの継続をお願いに行ったことがある。何が気に入らないのかサポートを止めるの一点張りだ。すぐ近くの焼肉屋さんへ連れて行かれ、お酒も入って、息子さんと社長さんの取っ組み合いになってしまったのだ。

結局サポートは打ち切られたので、厚木の車の輸出入会社の社長に自転車留学のサポートをお願いして、了承を得て無事にベルギーで走れるようになって、ヨーロッパのプロチームへの移籍話や、アメリカの有力チームの練習生のポジションにたどり着いた。


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