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2020年03月08日19:54

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ナウシカ歌舞伎【後編】

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』ディレイビューイング【後編】。
フォト
3月3日(火)。広島、八丁座で鑑賞。
平日昼とはいえ観客は少なめ。前編を観た直後に指定券を買ったのだが、その時から席の変動がないようだ。前編公開直後にコロナウイルス騒ぎが本格化したのも響いているだろう。

後編は前編以上に正統派歌舞伎。前編にあった本水や派手な立ち廻りもなく、花道の六方も踏まず、菊之助負傷の影響もあるのかメーヴェの宙乗りなどの趣向もない。その分、原作への挑戦の度合いの強さが見える。
幕開け。主な演者が一人一人名乗りを上げ、最後に全員の「風の谷のナウシカ」の呼びかけで中央の台に立つナウシカにライトが当たる。青き衣の後ろ姿はもうナウシカその人。勿論、人の演じる歌舞伎。見れば漫画原作と違うのは当然至極。でも、それを超えて菊之助はナウシカの心根そのものを体現している。
今回は旅の道化がタペストリー幕の前で話を案内。この道化が見た目も声音もすごくいい。話の展開に連れ、トルメキアのヴ王付きの王宮道化となり、終盤では更に重要な役を担う。演じるは中村種之介。覚えておこう。
前編でナウシカを苦しめた土鬼(ドルク)の皇弟ミラルパは皇兄ナムリスに謀殺され、退場。勿体なくはあるが、この二人を坂東巳之助が演じ分けて見せるから面白い。
ミラルパが体を休める培養槽の四角い窓越しに上半身が見え、薬液に浸かっていると分かる。このビジュアル。これだけのことで『ナウシカ』が持つ伝奇SF感が醸し出される妙味がある。
後にナムリスはクシャナと二国間の政略結婚を結ぶのだが、堂々と舞台映えするナムリスの衣装が、クシャナの承諾を不自然に感じさせない。
土鬼は生物兵器としての粘菌を生み出し、滅びの渕にあって争いを止めない人間たちに、遂に大海嘯が起こる。
巨大化した粘菌は神楽の大蛇のような蛇腹をくねらせて荒ぶる。原作からのこの表現の移し替えがすごい。
累々たる王蟲の死骸と、雪のように舞い落ちる白い胞子の中でナウシカが舞う。王蟲の書き割りと映像の胞子の前で、透明な王蟲の目の抜け殻や歌舞伎の三連笠を手に、『鷺娘』や『道成寺』など女形の踊りのエッセンスを集めた静かな舞いからナウシカの深い悲しみが伝わる。大海嘯をこのような形で視覚化するとは。何らかの形で王蟲の暴走を見せてほしかった気もするが、この踊りには圧倒される。
一方、蟲の大群の中に取り残されたクシャナの軍は巨大な蟲の作り物を纏った役者が取り囲み、長い棒で操る蟲たちが飛び交う。深手を負ったクロトワを膝に抱き、最早これまでと悟ったクシャナの口から古い子守歌がこぼれる。おそらくは己を庇って毒をあおり正気を失った母が口ずさんでいた子守歌。メロディはナウシカと王蟲の交感の曲のアレンジ。歌が生の声で響く、漫画には不可能な生の表現の持つ力。七之助絶品。

原作の話の流れを追いながら簡潔に纏められているので、混沌とした話もかなり分かり易い。しかもきちんと歌舞伎。難しい命題をよく形にしたと思う。場数がやや多い印象もあるが、それはもしも再演が叶った時の課題だろう。
ナウシカを助け、腐海の秘密の一端を告げる森の人セルムも衣装がよく考えられ、尊い清らかさがある。
トルメキアのヴ王も素晴らしい。威風堂々とした風格と武将を思わせる衣装、重厚な芝居。演者は中村歌六。クシャナ七之助をも食うほどの貫録で舞台を圧する。
一方、土鬼では巨神兵が復活。巨神兵は巨大な作り物の体にプロジェクションマッピングと思う映像が投射され、おどろおどろしい肉体が表現されている。歌舞伎としては前衛的な表現ではないだろうか。
ナウシカは秘石の力によって巨神兵と心を通わせ、オーマ(無垢)の名を与えて共に行動することとなる。
しかし巨神兵の吐き出す毒によってテトは死ぬ。巨神兵の毒は放射線のそれだろう。宮崎駿の問題意識が伺える。
悲しみに沈むナウシカを不思議な庭の主がいざなう。主の纏う清らかな白い衣がこの世ならぬ存在を際立てる。
この「庭」は若き宮崎駿が影響を受けたロシアのアタマーノフの長編『雪の女王』の、時が止まった魔法の庭からのものだろう。作者のルーツを辿るのは楽しい。
庭の主とセルムの言葉からナウシカは、今の人間は旧人類によって汚濁の中で生きられるよう作り変えられており、腐海によって浄化された清浄の地では生きられないことに気づく。
そして最後の目的地、シュワの墓所は世界の浄化が終わった後の清浄の地に住む新しい人間を生み出すための場所であり、先の庭は争う心を消された新人類が受け継ぐべき文化の収蔵庫。
これらが漫画の絵ではなく目の前の役者の肉体と声で演じられることによって観念的な問答ではなく生きた対話になって届く。歌舞伎という同時進行の舞台で演じられることの意義のひとつがここにある。
前編では救世主と目されながらも運命に翻弄される可憐な娘として存在感が薄かったナウシカが、この後編ではれっきとした主人公として立つ。
巨神兵オーマと、墓所の主の戦いは石橋物(しゃっきょうもの)と呼ばれる歌舞伎の毛振りで表わされ、花道からせり上がって来た赤いオーマの精と白い墓の主の精とが連獅子のように豪快に演じる。
予告などから二人で演じると思っていたのだが、実際はオーマの精、墓の主の精にそれぞれ8人の踊り手が付いて、総勢18人が舞台狭しと踊りまくるのだ。その迫力!完全に意表を突かれた。赤頭は白頭よりも勇壮に舞うという決まりもあるそうで、そう言えば確かにそうと見える。同じ旋律が繰り返し奏でられ謳われるうち、呪文のようになっていく邦楽の響きにも圧倒される。
オーマの精はアスベルも演じた尾上右近、墓の主の精は森の人セルムも演じる中村歌昇。この意外な二役にも驚きだ。幅が広い。
墓の主は倒され、やがてオーマも死ぬ。名づけの母であるナウシカはオーマを自慢の息子として認め称える。先の子守歌を口ずさむクシャナといい、宮崎作品に流れる重要なファクターである母性の抽出が見える。
昇る朝日に金色に染まる大地に立ってナウシカは言う、「生きねば」と。背後の幕が落とされると、そこには大勢の人々。この、舞台ならではの仕掛けによって、ナウシカは一人ではなく大勢の人と共にあることが目に見える。青き清浄の地に人は住めず、滅びに向かうしかないが、それでも生きねばと。
自然と人とは二項対立するものではない。なぜなら生命とは闇でも光でもなく、闇の中に瞬く光なのだから。
原作ではその遥か後、ナウシカは森の人の元へと去ったとも伝えられ、その行方ははっきりとは示されない。伝説とはそのようなものであるが、人々を欺き偽りの救世主として導き、黄昏の時代を「生きねば」とつぶやくナウシカの姿には一抹の寂寥がある。が、歌舞伎版のナウシカは人々と共に主体的に生を選び歩む強さがある。これは、寂寥感漂う原作漫画よりも、一歩進めた解釈、今ならではの答と言えはしないか。終幕の直後に出演者一同勢揃いの賑やかなカーテンコールがある舞台ならではの到達点とも言える。

それにしても工夫を凝らした見事な舞台だった。いつかまた万全の態勢で再演してほしい。大震災と原発事故の後、未知のウイルスが蔓延する今この時にディレイビューイングが行われたのも何かの因縁を感じる。
と同時に、宝塚やバレエ、オペラ、様々な『ナウシカ』を観てみたい気持ちがする。
映画としては落ち着いた、定点に近いカメラに、時にアップや、観客席からは絶対に見ることの出来ない角度からのショット(クシャナの横顔など絶品。あれはどこから撮ったのだろう?)などを交えて見せてくれて、とても見やすかった。

写真はネットから。
フォト 大海嘯に舞うナウシカ
フォト 蟲に囲まれるクシャナとクロトワ
フォト 巨神兵
フォト
 タペストリーの幕
フォト フォト
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