今日は元旦、大晦日の晩は実家に泊まり、今朝早く両親と神社へお参りへ行って来た。
私はキリスト教徒なので、神社に行っても、母からもらった賽銭を賽銭箱に投げ入れるだけで、拝んだりはしない。
4つ神社を回ったのだが、2つは大きな神社で人も多いので目立たず、1つは小さな神社だったが、目に止まらず、4つめの実家の地区の神社でとうとう母に見つかってしまった。
「賽銭だけでなく、少しは拝んだらどうなの?」
「俺、キリスト教徒だから拝まないんだよ」
それ以上、母が聞いてくることはなかった。
神社には良いか悪いかは分からないが、何やら霊的な存在がいて、拝むと願いをかなえてくれる。
確かに神社に行くと何やら荘厳な感じがして、霊的な存在がいるような気がしてくる。
日本人は毎年何千万人もの人がそれらの霊的な存在を拝んでいるが、私の母も含め、ご利益があるかないかは分からないが、少なくともバチは受けていないように思われる。
私はキリスト教徒になってからも、しばらくこれらの霊的な存在も拝んでいたが、
最近、浮気はよくないと思いやめることにした。
私が女性と結婚できないのは、これらの霊的な存在を拝まないからバチが当たっているのかもしれない。
そんなことを思い悩む時もあるが、とりあえず私は神様に忠誠を誓ったので、結婚できなくても、そういった霊的な存在に頼れないなと思う。
愛とは一方をとればもう一方を失わなければならない。
そして一方をとるから対立が生まれ争いが起きる。
でも両方とる人には愛がない。愛と憎しみは表裏一体だからだ。
むしろ、好きな方を好きだ好きだと言うより、片方を捨てることが相手に対する大きな愛であったりもする。
家に帰ってから、教会の元旦礼拝に行き、今度は神様を礼拝するのだが、私はあまりお願い事をしない。
ただボーっと礼拝の時間を過ごし、それで帰ってきてしまう。
神様に対し熱烈な愛がある人は熱心に拝んでいる。
ただ十字架を見るたびに、映画「パッション」で観てトラウマになったリアルな十字架刑が思い出され、気分が悪くなる。
でも十字架は人間の負ってしまった苦しみを象徴している。
これを見ると「くじけちゃいけない」って思うんだよね。
キリスト教は愛の宗教と言われるが、歴史的にはどの宗教より多くの人を殺してきた。
なぜならイエスを憎む人を殺すことが、イエスを好きと言う言葉より何百倍も愛を示したからだ。
イエス本人は争いを望んでいなかったが、彼はあまりに深く愛されたため、あまりに多くの犠牲者を出してしまった。
例えは悪いが、恋人がレイプされた時、レイプされた恋人に100回「それでもあなたのこと好きだよ」と言う人より、レイプしたヤツを一発ぶん殴る人の方が1000倍、その人を愛している。
たとえ返り討ちにされ、ボコボコにされても、2人の間の絆を保つことができる。
でももし言葉だけで言ったなら、所詮、それだけの関係でしかないのである。
エルサレムにはイエスを十字架刑に処した場所に教会が建っている。
昔、十字軍がエルサレムを占領した時、このイエスを処刑した場所で、多くの人間が虐殺された。
騎士たちはイエスを愛するあまり、彼を殺した連中の子孫を同じように虐殺することで、イエスに対する愛を示し、それによって天国へ行こうとしたからだ。
礼拝で1000回イエスを愛していると言うより、イエスを殺した奴らの子孫(あの世にいる憎むべき敵が最も大切にしている人)を1人殺す方が愛している気持ちが強い。
気持ちの悪い話だが、この聖なる教会は人間の血塗りの手の跡で充満しているらしい。
イエスの処刑地に老若男女を集め、そこで徹底的に虐殺し、その血でできた池に手を浸し、神へ愛を示すため、教会の壁に手形を押したらしい。
日本ではカネとか領土とかばかりで歴史を説明するが、カネや領土だけでこんなに人を殺すわけがない。
結局は「愛」のために人を殺したのだ。
この話はキリスト教会ではタブーであり、キリスト教徒が話してはいけない部類の話であるが、真実であるし、愛というものを考えるうえでとても重要な話である。
午後はアマゾンプライムで動画(映画)を2本購入して観てみた。
1作目は「グローリー」というアメリカ南北戦争の黒人部隊の話。
2作目は「パトリオット」というアメリカ独立戦争の時の話。
どちらも名作であったが、戦争映画だけにえぐい。
はっきり言っておくが、戦争はよいものではないが、結局、戦争できない人っていうのは、愛がないんだよね。
大切な物、守りたい物があれば、必ず対立が生じる。
「おまえは大切だ」と1000回叫ぶより、たった1回、それを奪おうとする敵の鼻面に鉄拳パンチをおみまいしてやった方がよい。
1000回の呪文では何も守れない。たった1回のパンチは確実にそれを守る。
イジメの問題にしても、結局、イジメられる人は自己愛が萎えてしまっているからイジメられる。
自分を愛していれば、イジメっ子の言って来る屁理屈などものともせず、自分が愛する自分を傷つけた敵が許せなくなる。
相手が妥協のために差し出した欺瞞に満ちた手をはたき、相手のほほをぶん殴った時、それは1000回「自分を大切にする」と誓うより深く自分を愛することができる。
母に「拝むだけでもしてみたらどうか?」と聞かれ、それを拒否した時、やっぱり自分は神様を愛しているんだなと感じた。
うまく説明できないけど、これなんだよね。
私が人から愛されないのは、1000回「愛している」と言うことにこだわっているが、愛には必ずアンチが発生し、そのアンチを好きでないと言わなかったから。
もし愛されたいなら、その人に好きと言うより、その人のアンチを嫌いという方が、その人から愛される。
どっちつかずの日和見では、どちらからも好かれない。
人を好きになるのは大変だ。でも人を嫌いになるのは簡単。
愛と憎しみが表裏一体なら、嫌いから入った方がより深く愛せるのかもしれない。
ログインしてコメントを確認・投稿する