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2019年11月10日14:33

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2本のキューブリックのドキュメンタリーに様々な感慨

11月4日(水)

 kino cinema 立川高島屋S.C.館
「クライマックス」(ギャスパー・ノエ)
22人のダンサーのインタビューから始まり、彼らのパーティー風景へと続いて行く。インタビュー後は、ほとんど言葉は無い。長回しで(アングルを変えてのスピーディーなカット割りも無いではないが)、まずはダンスに興じる姿が延々と捉えられる。一拍置いて小グループに別れ、男達・女達の長々とした酔談・猥談、そしてまたダンスまたダンス。パーティーの終り間近の倦怠の揺れるような舞。しかし、誰かがサングリアにLSDを入れた!そこから先はヴァイオレンス・SEXの阿鼻叫喚・乱痴気騒ぎへと雪崩れ込む。一夜明けた光景は、狂い死にあり、半裸・全裸でからんだままの痴態の数々。退廃した耽美に圧倒される。私の好みにはやや遠いが、何かとてつもない映像体験を越えたとの思いに圧倒された。(よかった)


 立川シネマシティ

「閉鎖病棟−それぞれの朝−」(平山秀幸)
死刑執行後に蘇生してしまった笑福亭鶴瓶の主人公の設定に唖然とさせられた。いや、以前にも大島渚の「絞死刑」という同様の設定の傑作はあった。こちらは、心神喪失の者には再執行はできぬとの法律論から(そう、あくまでも法律用語では「絞首刑」であって「絞死刑」ではないのです)、抽象的ファンタジー空間の、デイスカッションドラマへと導いていく。しかし、今作はガチ・リアリズムに進む。再執行は、人権的に騒がれそうな問題がある。ということで、行政の事なかれ主義の結果、心神喪失の継続としたようで、精神科病院をたらい廻しされる結果となるが、そこは私はもう一つ釈然とできなかった。3人を殺害した死刑囚にしては、鶴瓶が温厚過ぎるとも思えるが、そのあたりは回想で、やむを得ない結果としてフォローされる。他の精神科患者たちのやむに止まれぬ事情も、平山演出は的確にフォローする。ただ、唯一の悪役的存在の渋川清彦は、あまりに類型的だ。閉鎖病棟の管理体系も、かなり杜撰に見えて、私には釈然としなかった。いずれにしても、私は精神疾患の人への偏見は無いが(いや、潜在的にはあるのかもしれないが)、そういう人たちを延々と羅列されるのは、気色の良いものではなかった。(あまりよくなかった)

「ジェミニマン」(アン・リー)
凄腕の米政府機関のスナイパーが、心理的重圧から引退を考えるが、そこから国家の暗部の陰謀に巻き込まれ、暗殺者を差し向けられる。暗殺者の行動や容貌が、若き日の自分に瓜二つ。ここから先は、チラシでもネタバレさせているからいいようなものだが、知らなければその方がいいに越したことがないので、これ以上は触れません。20代と50代のウィル・スミスが共にしっかり熱演し、大戦闘を繰り広げる映画技術は、驚異としかいいようがない(「ターミネーター」シリーズで時に若きシュワちゃんが出てくるが、こっちは特出の愛嬌程度)。動物に感情表現をさせた「ライオン・キング」に続いて、映像技術はどこまで行ってしまうんだろう。そして、生身の人間を兵士として失う哀しみを避けるために、この映画のような兵器(?)開発を進める止まりようのない技術の恐ろしさに、それは通底する。だったら、戦争しなけりゃいいなんて、ヤワな感性では通じない現代国際情勢に思いを馳せる時、この映画の恐ろしさがシミジミと心に浸みてくるのだ。(よかった。ベストテン級)


11月7日(木)  UPLINK吉祥寺
              スタンリー・キューブリック没後20年特別企画

「キューブリックに愛された男」(アレックス・インファッセリ)
「キューブリックに魅せられた男」(トニー・ジエラ)

 映画監督の巨匠というのは、わがままで完全主義者でせっかちというやっかいな存在のようだ。でも、映画は集団作業で完成するのだから、そんな彼に全存在を捧げて悔いなしという人達が必要だ。だから、巨匠は「人たらし」であることも兼ね備えていなければならない。黒澤明に関する諸々のエピソードを耳にするにつけ、そんな思いがしていたのだが、スタンリー・キューブリックもその例に洩れなかった。

「キューブリックに愛された男」は、30年間勤めた専属運転手のイギリス在住のイタリア人エミリオ・ダレッサンドロである。タクシー運転手のかたわらF1レーサーを目指すよくいるカーマニアの一人だった。

 出会いは、「時計じかけのオレンジ」で印象的な巨大な男根の小道具(大道具か?)を、荒天中にも関わらず即必要だから、撮影所まで長距離輸送せよとの無茶な要求に対して、窓からいかがわしい代物を突き出してまで押し込み、誠実に請け負って職務を果たしたことが、気に入られたことに始まる。

 キューブリックの要望で、屋敷住み込みの運転手となるが、そこから大変な修羅場が始まる。せっかちなキューブリックは、思い付けば即行動、昼夜を問わず完全に振り回され続け、ついには単独でロケハンにも赴かされ、写真撮影まで頼まれる。その他、その他、映画製作に頻繁な車両移動は必要不可欠だから、私生活などは無きに等しき事態に至る。

 もはや、F1レーサーを目指すなんて趣味の世界は断念。何年か後には故郷に帰って親の面倒を見ながらの隠居を申し出るが、後1週間だけ頼むと懇願され、それがズルズルと1年余になり、ついに父親の死に目に会えなかったことにもなっていく。それでも、それを怨みに思ってもないようで、時に笑みを浮かべながら回想するのだから、「人たらし」キューブリックの面目、ここに極まれりだ。

 興味深いのは、彼がキューブリック映画を観たのは、晩年の隠居生活に入ってからのことで、激務に追いまわされていたリアルタイムには、自分が貢献した成果すら眼にしていなかったということだ。映画製作に間接的にしか関わらなかった専属運転手ならば、当然なのかもしれないが、皮肉な事実である。
 隠居時代に入ってからキューブリックに、何が良かったと聞かれ「スパルタカス」と答えたら、「大した映画じゃない」と憮然とされたとの一幕は笑えた。プロデューサー・オーナーのカーク・ダグラスと意見が合わず、自由に撮れなかった悔いが残ったとのことは、キューブリックファンには周知の事実だ。もっとも私も、「スパルタカス」のヴァイオレンス・スペクタクルのパワーは大好きである。

 それにしても、今でも大切に保管しているキューブリックのメモ書きまで含めた膨大な資料、エミリオ・ダレッサンドロのキューブリック愛を、痛感させられた。

「キューブリックに魅せられた男」は、「バリー・リンドン」で主要キャストに抜擢された若手演劇人レオン・ヴィターリだ。この経験で映画に魅せられ、キューブリックに魅せられて、撮影の勉強を中心に映画技術を身に付けて、キューブリック映画に関わることになっていく。

 キューブリックは彼に絶大な信頼を寄せ、撮影・照明・衣装から、キャスティング・ディレクターのような人探しまで、時には本来の演劇人として演技指導から端役出演に至るまで、クレジットされるスタッフを差し置いても頼るようになり、キューブリックが顰蹙を買うこともあったようだ。ただ、彼のクレジットは「助監督」という素気ないものだった。

 作品のすべてに関わった人物ということで、キューブリック死後も、二次利用・三次利用や修復作業への貢献も大きい。でも、陰の人でもあり、ハリウッドのメインストリートでのキューブリック展では、下働きは努めても招待すらされない。それでも、個人的に案内活動など、キューブリック作品への様々な活動に、力を注いでいる。ここまで死後も尽くしつくすとは、「人たらし」キューブリックの面目躍如である。

 ただ、「愛され」「魅せられ」た本人はともかく、一切を捧げた結果、私生活など無きに等しい人生を送らされた彼等の家族も、決してキューブリックに悪感情を抱いていない。さすがに妻達は愛憎半ばという感じだが、子供達は「いいおじさん」として、今でも懐かし気に思い出話を語る。やったことはかなり理不尽なのに、この親しまれ方、ホントに私も「人たらし」の極意を知りたいものである。

 けれどキューブリックは、70歳という現代ならば早逝と言える時に世を去った。我々は、2001年まで生きていなくてどうなのよ、とボヤき悲しんだものだ。多分、彼自身が「愛され」「魅せられ」た男以上に、我が身を削りボロボロになっていったのではないだろうか。晩年のくたびれ果てた容貌から、如実にそれを感じた。

「一将功成りて、万骨枯る」そんな言葉をシミジミ思わせる2本のドキュメンタリーであった。(よかった)


 キューブリックのドキュメンタリー2本は、作品を離れても様々なことを、考えさせられた。

 映画というものは素晴らしい。とにかく作品として残り続ける。今回のキューブリックのドキュメント2作品(他にも「ハロルドとリリアン」etcのような例もあるが)のように、時に、脇にもスポットは当てられて残る。

 でも、基本的には映画は監督の物としてか残らない。我々、映画ファンは、映画は監督だけの物ではないと知っている。ただ、映画史上としては、監督の物として残る。

 脚本原理主義者の荒井晴彦さんは、よくのたまわる。「みんな、映画は監督の物として論じるけど、そうじゃねェんだよ」と…。そんなことは、ちょっとした映画好きなら知っていますよ。映画は集団創作物なのだ。ただ、我々ファンは、そんな製作の細部まではあずかりしらない。だから、作品の「顔」として監督に象徴させているに過ぎない。

 世間を見てください。社会や企業で、あれは次官の功績だとか、副長の功績だとか、専務の功績だとか言いますか?結局、功績は大臣であり課長であり社長の功績として残るのだ。実態はどうあろうともだ。

 だから、映画に関しては、あの映画の功績は脚本だとか、キューブリックドキュメントのように、その陰の功績者に脚光が浴びせられること事態が、幸運なのである。甘ったれてるんじゃネェよ!と、私は叫びたい。

 ただし、私は荒井晴彦さんに対しての、好意的な感情は否めないし、本日記でもそんな想いを時に応じ吐露してきた。毒舌なのに、語りがソフトで何とも憎めないのだ。

 ある人が言った。「あなた、荒井晴彦にたらされたんだよ。荒井さんは女たらしで高名だけど、男たらせなくて、女たらせると思う。あの人は人たらしで、あなたもたらされたんだよ」成程、荒井さんもキューブリックと同類か。あの人をクサす人も多いけど、それ以上にシンパも少なくないよなあ。

 話を世間の無名性にもどせば、私が一生のほとんどにエネルギーを注いだ(単に飯を喰うだけの仕方ない理由であるが)電力(他にガス・水道・通信・鉄道・防災・治安)などのインフラ事業は、全く無名性の世界だ。

 科学・技術は、ノーベル賞受賞など例外中の例外で、全てはそのまま消えていく無名戦士によって支えられていくのである。それも当然、インフラ事業を支える基盤は時々刻々変貌し、過ぎてしまえば消え去るしかないのだ。私が携わった電力系統運用は時代と共に大きく変貌し、それをサポートすべく私が関わり構築したシステムも、時の流れと共に、いくつ除却・廃棄され、影も形も無くなっていったことだろう。

 定年も遥か昔に終え、古希もかなり超えた私の、これがキューブリック・ドキュメント2作品を観た後の感慨である。でも、これは映画人に対する妬みではない。映画という良きロマンと並走した人生もまた楽しとの、私の心に湧き上がる愉しみでもある。


 ここまでで私の今年のスクリーン初鑑賞作品は268本。

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