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2019年10月03日20:38

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エフゲニー・オネーギン@新国立劇場

2019/2020新シーズンオープニング作品に行って参りました
オープニング恒例の勅使河原茜さんによるウェルカム・フラワーがなかったのは
いかなる理由によるものか(大人の事情でしょうか)

この作品は二期会公演、二度にわたるMET LV鑑賞、その事前準備でのDVD鑑賞、
先日のオペラトーク拝聴など結構重ねて参りましたので、そしてチャイコ氏もしつこい
くらいモティーフを繰り返すので耳に馴染んだものとなっております

オペラトークでオネーギンは大人である、また今回の公演はスタニスラフスキー
システムに基づいているなどの情報がありましたので、「どれどれ」という感じです

舞台装置で4本の円柱が各場共通のものとなっておりましたが、これが1922年の
上演を今に伝えているらしい
しかし、演劇的要素を重視しているというのはそんなものかなというのが素直な感想
歌っていない人物がなにやら「演技」していたり、合唱も棒立ちではないのは確かに
そうなのですが、さりとてそれが何を表しているのか必ずしも明らかではない

タチアーナの手紙の場の後、乳母と会話しているときに窓の外でラーリナ夫人が
ガラス窓を叩いているのが意味不明です
トリケ氏の場面でのコメディ的扱いもちょっと唐突で、レンスキーの決闘宣言を
群衆が喜ぶのもそれまでのざわつきに比べ異質な感じ
オネーギンの噂話でディスっていた女たちが、その後彼を取り囲んでちやほや
するのも連続性がない

ちょっと説得力に欠けますかね

オネーギンの大人度については、レンスキーやオリガを子ども扱いをしていると
言う意味では大人なのかもしれませんが、ワタシに言わせると大人げない
レンスキーをからかって決闘まで至らせるのも、オリガにちょっかいを出して
これを見ているタチアーナを悲しませるのも、とても大人の取るべき態度ではない

決闘の場面では、レンスキーを狙わず、相手を見もしないでそれがまさかのまぐれ当たり
するところは「殺意はなかったと一部容疑を否認している」というところでしょうか
でも決闘に至ったことに関する責任はとるべきです(未必の故意)

音楽的には冒頭の哀愁を帯びた響きにはおっと思いましたが、これは指揮のユルケ
ヴィチ氏の表現力によるもので、聴き進んで行くといつもの東フィルサウンドに戻って
しまい、弦はざらつき金管はコケるというぬか喜びに終わりました

歌唱は、これは良かった
主役二人、グレーミン公も招聘した意味のある声でした(見た目も)
日本人キャストも健闘していたと言っていいのではないでしょうか(ロシア語ですから)

合唱はいつもの通り「演奏は」立派、演技はいつもの通り小芝居が鼻に付き、スタニス
ラフスキーシステムを具現化しているとは思えません(むしろ裏目に出た)
でも第三幕冒頭の有名なポロネーズは、一瞬新国立劇場バレエ団か、それにしては
少々ぎごちないし、体型もダンサーのものではないな、と思っていたら歌い出したので
合唱団にしては上出来ではないでしょうか

などと色々申しましたが、総じてチャイコフスキーの音楽の甘さは(甘ったるさは)充分に
感じられたので、公演としては成功の部類でしょう
それにしても、ドリンクコーナーのコーヒーが一気に400円から500円に値上がりしたのは
痛いです(以前はドリンクチケットとの差額でのど飴が買えたのに)
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