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2019年09月11日07:49

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「強健術」案内8

前回までで、処女作『実験 簡易強健術』に初めて発表された「強健術」の「第一練習法」を見てきました。ここで、発表された「強健術」は、現在最もよく知られている「簡易強健術」と比べますと、非常にシンプルです。また、「下腹部の緊張」はありますが、「中心力」そのものはまだ登場せず、その回数も「簡易強健術」の左右2回ずつに比べ、左右15回ずつと非常に多いのも特徴的でした。また、「運動の過激」を避けるため、動作を「静か」に行っているのもその特徴の一つです。このように初期の「強健術」は、後の「簡易強健術」とは大きく違っています。逆に、ここから「簡易強健術」に至る道程をたどることによって、「強健術」の構造、原理を解明することができます。
ところで、春充自身がその著作で、自身の「強健術」の発展の歴史を解説している部分があります。このブログでは、適宜この部分をも参照しながら、「強健術」発展の歴史をたどっていきたいと思います。その中で春充は、自身の「強健術」変遷の歴史を次のように4つの期間に分けています。
第1期は明治33年より、同44年に至る12ヶ年であって、姿勢を正しくし、気合を以て身体の内外を鍛えた。
第2期は明治44年より大正4年に至る5ヶ年間、これは近衛歩兵第4連隊の森の中で、毎夜練修して居った時に、脚の踏付けによる衝動力を、腹へ持って来ることに、気が附(つ)いたので、其(そ)れを練修法に応用したから、一層強烈なものになった。
第3期は、大正4年から、同12年に至る9ヶ年で、全練修法の型を、気合応用強健術運動法と、呼吸応用の簡易練修法との2つに分けた。前者の型と、第1期の型とは、正しい姿勢の執り方であって、今日のものと変わりはない。只(ただ)今日、其れが増す増す徹底的完全になったと、云うまでのことである。
但(ただ)し後者の呼吸応用の型が、前に述べたように、巧妙な理論的原則樹立のために、腹の形を円くして、腰を崩すの誤りに陥った。誤りと云うと、非常に強く響くけれども、私は其(そ)れによって、別に何等の障害を受けぬのみか、相当の鍛錬になった。
けれどもそれは、要するに体的修養上、不完全不十分のものであり、一番良くないことは、身体の形を以て、精神を機械的に支配し、其処(そこ)に生命の、光明界を啓くの秘境と、全く没交渉な点である。
第4期は、大正12年より、今日に至る14ヶ年であって、大正12年6月、完全なる正中心生命に落節してから、突如型を3法に約し、練修時間を2分30秒に短縮した。昭和2年頃より更(さら)に省きて2法となし、大中心力20回、時間は僅々、3,40秒時にて足るようになった。而(しか)も精神肉体ともに益々強大になりつつあることは、前に縷々(るる:詳しく)として、述べた通りである。(聖中心道肥田式強健術 P.687〜688)
このように、「強健術」発展の歴史を4期に分けています。簡単にそれぞれの「強健術」の特徴を述べますと、「第1期」は、春充が強健になる志を立てて、「サンドウ体力養生法」などを参考に最も初期の「強健術」(これを「原強健術」と名付けます)を考案し、後に高校、大学で剣道や柔道の要素を取り入れ完成させた、現在このブログで考察している著作『実験簡易強健術』に発表された「強健術」までを指します。第2期は、「強健術」に「脚の踏みつけ」によって「中心力」を形成するいわゆる「気合応用強健術」の原型が出来た頃となります。第3期は、現在「簡易強健術」として知られる「強健術」の原型ができあがり、「気合応用強健術」と併せて2種類の「強健術」が出来上がった頃となります。ただし、ここで春充も言っていますように「簡易強健術」の型には重大な欠点がありました。第4期は、いわゆる「正中心」に落節してから後のことです。ここで、「強健術」は一通り完成しました。そして「簡易強健術」の欠点も、「落節」すると同時に解決することになるのです。
(写真は、春充の生家近くより眺めた三つ峠)
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