mixiユーザー(id:7170387)

2019年05月18日06:36

75 view

石原莞爾語録2

26日早朝、阿南さんから、将校らが兵隊を連れて叛乱を起して陸軍省、参謀本部を占拠しているから早く来てくれ、という電話で始めて事件を知った。私は直ちに飯沼さんに知らせ、歩兵第三連隊長の渋谷、歩兵第一連隊長の小藤に、直ちに連隊旗を奉持して三宅坂へ出て来い。

そして叛乱将校に連れられている兵に連隊旗のもとに集合を命じ、兵を集めて引き揚げてしまえ。そうすれば残るのは僅かな将校だから事件は極めて簡単に鎮圧できる。必ずそうするように、といって参謀本部に急行したが、渋谷も小藤も、俺の言ったことをやっていなかった。その通りにやれば、あんな騒ぎにはならなかったのだ。

兵は連隊旗には絶対に叛かない。必ず連隊旗の下に集まる。事件は簡単に片付くのに、なぜかそれをやらなかった。真崎は、あの日、旭日章を吊って陸軍省に来ていた。何の意味で大事件の日に旭日章を吊ってきたのか。誰が考えてもおかしいではないか。

叛乱将校らの目的が通って、革命政府ができたら、その棟梁である真崎に、組閣の大命が降下するとでも思いこみ、すでにお召しの場合を考慮して旭日章を吊ってきたものとしか俺には考えられない。大体が西郷隆盛になる(若者の責を負って割腹自刃)だけの度胸もなく、若い将校らにやらせ、いざ事が否になれば、知らぬ、存ぜぬで逃げる奴に何ができるというのだ。以上は二·二六事件後高木清寿氏に語る。

満州事変勃発当時、私は作戦面を受けもつ関東軍参謀であったが、私は満州の独立を主張した一人である。私が満州の独立を主張したのは二つの理由からなっている。即ち、その一つは、軍人的見地からして、東亜防衛の根拠地としての満州より出発している。

日本は、ソ連の南下に極めて重大な関心を有するものであるが、張作霖、ソ連戦争にも見られるとおり、当時の満州実力者の防衛は極めて手薄であった。他の一つは、主として政治的原因によるもので、この点、中国人の方々は憤慨されるかも知れないが、当時、中国と日本とは連続的に紛争が絶えず、中国本部では、しばしば日本との政治的、経済的親善が反対された。

ところが満州は、その歴史的関係においても日本と非常に密接である。したがって満州を中国本部から切り離すことは、日支間の紛争を少なくし、さらに日支提携を促進するとともに同地をソ連に対する防衛力としてその基礎を固めることができると考えたからである。この私の見解は、在満中国人の同意の上で実行に着手されたわけである。

断っておくが、自分の考えとしては、これが実現すれば在満諸民族は全く平等とし、満鉄、旅順、大連は、即時、満州国に返還し、中国にある日本のあらゆる政治的権益は無条件で中国に返還する意向であった。かくすることによって、日満共同してソ連に対抗できるものと考えたからである。しかし、私のこの主張は実現しなかった。

満州国独立の結果は、日本人が満州を独占して、他民族を圧迫し、建設そのものもたくさんのビルディングを建築したのと鉄道を敷設したにとどまった。産業開発もまた期待を裏切った。私は在満中国人に対する約束を裏切った。この意味において、私は立派な戦争犯罪者である。

私はこれら独立に協力した在満中国人に対して甚だすまなかったと考えているし、ただ中国の当局者が、これらの人たちに寛大な態度をもって臨まれるよう希望するのみだ。私は満州国独立に対しては以上のような意見であったから、溥儀氏を皇帝に推すことに関しては、なんらの関心をも持っていなかった。

日本は今後、土地や物資を争う考えをやめて、この狭い土地の中で新しい希望をもって高い文化を造らなければならない。さいわい将来、軍事費を必要としないから長くも十年以内には、充分日本人を養い、生活は東洋式な極めて簡素なものであるが、必要な科学文明については、欧米諸国に劣らないものを作りあげるベき構想を準備中であるから、将来、中国と日本との間に権益的な抗争は起らないであろうし、かかる基礎の上に立つ道義的提携が実現するものと期待する。以上は1945年9月、満州事変の真相を語った一節から。
6 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年05月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

最近の日記

もっと見る