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2018年12月02日13:03

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11-11 晩秋の奥武蔵 旧 正丸峠から大野峠へ

2018年11月11日(日)
奥武蔵
晩秋の峠を繋ぐ
正丸駅→〈秩父往還 吾野通り〉→旧 正丸峠→サッキョ峠→虚空蔵峠→牛立久保→七曲り峠→大野峠→赤谷→芦ヶ久保駅


YAMAP 記録、山行写真など
晩秋の奥武蔵 旧 正丸峠 虚空蔵峠 大野峠
https://yamap.co.jp/activity/2694345


1、秩父往還 吾野通り 旧 正丸峠へ

日曜日は池袋7時05分発「三峰口・長瀞」行きの西武秩父線直通電車がある。
飯能で乗り換えずに済むので気は楽だが、ハイシーズンともなればハイカーや観光客で車内が騒々しくなるので大して利点も無い。
この日は朝 出遅れたのでこの電車に乗った。

8時30分、正丸駅前は今日も伊豆ヶ岳を目指すハイカーで大盛況。50人くらいはいるだろうか。
一方、旧 正丸峠への道に向かったのは見た限り今回も誰もおらず、独り旅となった。

国道299号線はかなりの交通量だが脇道に入って集落に下ると忽ち静かな山村風景となる。
すぐに民家の軒先で黒猫に出会った。
毛並みの良い飼い猫で、縁の下に座って金色の瞳でこちらを見ている。
軽く声をかけて通りすぎ、だいぶ寂れた雰囲気の小さな八坂神社に入る。
簡素な社殿の横にある「子育て地蔵尊」の木堂には、昔から地域の子どもたちを見守ってきたであろう「子育て地蔵」と立派な像容の馬頭観音があり、いずれも寛政11年 1799年のものだ。

神社を出ると、今度は別の民家の軒下で3匹の猫が身を寄せ合っていた。
みんな模様が似たり寄ったりで、兄弟か親子らしい。本日の打ち合わせでもしているのだろうか。
この辺りで猫たちを見かけたのは初めてで、猫好きとしては幸先が良い。

庭の生垣に沿って庭石のように置いてあるので目立たないが ここには古い石道標があり、「左 秩父 右 大野 道」と刻まれた自然石はここが秩父往還の分岐であった事を示す証拠だ。

江戸時代、江戸と秩父を結ぶ往還は幾つかあったが、このうち旧 正丸峠越えの「吾野通り」は山越えではあるが最短距離で、享保年間(1720年頃)以降は特に多くの商人や旅人が行き交い、三峯神社や秩父札所など寺社への参詣を目指す人々も通行したという。
この峠路の歴史は少なくとも鎌倉時代にまで遡るそうだ。

分岐を左に進み、傍らの民家が何やら賑やかなので目を向けると、朝陽が当たり始めた縁側にお年寄りの笑顔が見えて 子どもたちの声がする。
勝手な想像だが、日曜日なので孫を連れた若夫婦が久々に遊びに来た、というような雰囲気だ。
なんだか微笑ましい気分になって 9時、峠への山道に入った。

古い石積みを見ながら進み、まずは苔生した馬頭観音に手を合わせる。
像容は極めて素朴だが大きな自然石を台座としている為に全体として重厚な風格が漂い、実際、吾野地区の馬頭観音としては最古の宝暦5年 1755年のものだ。
ここは秩父で生産された絹織物の運搬に使われた「秩父絹の道」でもあり、この観音様は江戸中期から昭和の初めまで、多くの人馬の通行を見守ってきたことだろう。
正丸では「ままの上の馬頭さま」との呼称があって、それがどのような由来かはわからないが 地元で長く親しまれてきた事がわかる。

人工林の中の沢沿いの径は今日も静かで、人影は無い。何度も歩いているが過去に出会ったのはほんの数人に過ぎない。
台風の為かやや荒れた径を辿るといったん車道に出た。
昭和11年に「正丸峠ドライブウェー」として華々しく開通してバスが運行し、飯能と秩父を結んでハイカーや観光客で大いに賑わったこの道は、昭和57年の正丸トンネル開通によって旧 国道となり、今では峠越えを楽しむバイクや車が通行するだけだ。
道路を横切って再び山に入るとすぐに谷間にエンジン音が湧き上がり、眼下の樹間を真っ赤な車に続いて数台のバイクが登っていくのが見えた。

再び静けさを取り戻した緩やかな峠路を辿ると、やがて旧 正丸峠に導かれる。
10時。ちょうど峠に着いたところで50代単独男性と交差した。
これまでの人工林から一転、西側は自然林で葉は淡く黄色に色づいている。
峠の向こうに横瀬二子山から甲仁田山にかけての山影が霞んでいた。

見上げると空は薄い雲に覆われ、青はわずかに覗いているが陽射しは無い。
予報通りに晴れてくれるだろうか。
おにぎりを頬張り、北東へと進路を取る。



2、虚空蔵峠から大野峠へ

「大グミ」など幾つかの小突起を越え、時折 北に「奥武蔵高原」の山並みを、西に武甲山や二子山を望みながら「親不知」や「サッキョ峠」を通過して、誰にも会わないまま 11時40分に「虚空蔵峠」に着いた。

少し陽射しが出て明るくなったが、このコースを歩く時には快晴に恵まれた事が無いのを思い出した。
コオロギだろうか、地虫が盛んに鳴いている。

峠の隅にひっそりと鎮座している年代不詳の虚空蔵菩薩に御挨拶して顔を上げると、40代の細身の男性が熊鈴を鳴らしながら歩いてきて、これから東屋で昼休憩をとるようだ。
虚空蔵峠は、その数200を超える奥武蔵・秩父の峠の中で最も古い歴史をもち、奈良時代の万葉集 所載の歌に出てくる防人も越えたといわれているが、これについてはまた別の機会に触れたい。

傍らの産業観光林道「奥武蔵グリーンライン」を自転車2台が相次いで、さらにバイク数台のグループが走り抜けて行った。
この先はグリーンライン上で最も展望が良く人気の高い場所の一つである「刈場坂峠」で、休日にはワゴン車の移動カフェも出店している。
今日もきっとライダーたちで賑わっている事だろう。

この刈場坂峠も昔は秩父・比企・入間へ通じる分岐点として重要で、そして古い歴史を有する峠だが、今日は峠には寄らず、明るい雑木林の雰囲気が好ましい「牛立ノ久保」から北面の水平径路を辿って「七曲り峠」を目指す。
ふと傍らの木の梢に野鳥の姿を認めて立ち止まると、その丸っこくて可愛らしい鳥は餌を探すのに忙しくて人間の存在に気付かないのだろうか、手を伸ばせば届きそうな距離にまで来てくれた。
見上げると青空が優勢となって清々しい雰囲気だ。

「七曲り峠」は古称 「アガリッキリ」とも呼ばれ、昭和の初めの地図には比企から登ってくる径路が示されている。ここからは北東に関東平野を望む事ができるが、やはりグリーンラインの舗装に貫かれているので古い峠らしさは無い。

13時半、人工林に囲まれた「刈場岳」の山頂を過ぎた先で昼休憩を取る。
ラーメンを食べて片付けていると、ガスバーナーにカメムシが這い上がってきた。
動物にせよ、昆虫にせよ、山での一期一会はうれしい。
刈場岳周辺ではランナー含め5人ほどと擦れ違った。
ここから大野峠までは、グリーンラインのすぐ横を歩く事になる。



3、大野峠の今昔

14時20分。「大野峠」に至る。
現在の大野峠は鬱蒼たる人工林に囲鐃された無機質な林道の交差点で、舗装道路と人工林に均された地形から見ても、標識が無ければそこが古の峠であるとは誰も気付かないだろう。
道路の真ん中に立って南北方向を眺めてみれば確かにここが稜線を跨ぐ乗越である事はわかるが、峠の歴史を知らなければ車やバイクはもちろん、ハイカーたちも立ち止まらずに通過していくような、何らの風光も面白みも無い場所だ。

尤もこれは、残念ながらグリーンライン上の峠に概ね共通する事であって(顔振峠と刈場坂峠だけは例外だが)、林道の周りが杉や檜の人工林で埋め尽くされてしまっては、誰もが無関心に通り過ぎるのは仕方のない事だろう。

しかし かつてこの峠には人馬が盛んに往来し、峠路は秩父と比企を結ぶ交易交通路として、さらには寺社に詣でる為の信仰の道として、秩父・比企の双方で長きに亘って重要な役割を担っていた。

また、時期は大正と昭和の狭間くらいだろうか、「馬の殿様」こと松平頼壽がここで牧場を経営し、広大な草原には数百頭の馬が放牧されていたという。
この牧場は昭和の初め頃には無くなったが、「埼玉大百科事典」の「大野峠」の項には「かつて牧場があり、芝生に覆われ、奥武蔵で最も美しい峠だった」と書かれている。
現在の薄暗くて味気ない風景と比べると、全く隔世の感に堪えない。

峠の片隅の草むらの中には、高さ1mほどの自然石に「馬頭観世音」と彫られた安政4年 1857年の石碑がある。
石碑の下部には左は不詳だが「右 たか山」と刻まれており、秩父から大野峠に登りつき、幾つもの峠を経て「高山不動尊」へと詣でる人々が歩いた信仰の道でもあった事がわかる。
左は不鮮明だがかろうじて「ちゝ…」と読めるので「秩父」の可能性が高い。
江戸時代前期からの歴史をもつ秩父神社夜祭の日は、比企地方の人々は老若男女 皆挙ってこの峠を越えて祭り見物に出かけたという。
現在の植林が育つ前は、比企から登りつくと正面に武甲山の堂々たる雄姿を望む事ができたそうだ。

簡素な東屋でザックを下ろして往時を偲びつつ休んでいると、丸山のほうから50代らしい夫婦が、さらに暫くして大学生くらいの山ガール4人組が下りてきたが、誰も石碑に気付かずにそのまま林道を横断して赤谷への道を下っていった。
古の峠の歴史を語る唯一の証人とも言えるこの石碑は、現代の人々からは一顧だにされる事なくやがては野辺に倒れ臥し、意味を喪った石くれとなってしまうのだろうか。
落ち葉が風に煽られてカサカサと音を立て、ふと顔を上げると南の樹間には、なんと逆光に浮かぶ武甲山の影絵が微かに覗いているではないか!
石碑は武甲山と正対するように立てられている。いまや石碑は役目を失い、武甲は無惨に削られた。これが時の流れであり、時代の変遷というものなのだろう。
しかしだからこそ、所詮は書物からの孫引きに過ぎなくても、何度でも過去の歴史をこうして日記に残して公開していこう。

山行メモの小さなノートにボールペンのペン先を走らせながら、また決意を新たにするのだった。



4、赤谷の馬頭観音

大野峠から秩父側への古径は、西の丸山の南面を巻いて六番峠を経て秩父盆地に下る道と、南の芦ヶ久保 赤谷に下る道とがあり、どちらも登山道として現在も残っているが今回は後者を歩く。
この道中には可愛らしい馬頭観音があるので、お会いするのが楽しみだ。

人工林の尾根をずんずん下り、やがて井戸ノ入沢の右岸の径に入ると斜面に付けられた水平径路となる。右斜面には露岩が多く、左側は沢床からの高度感があって、昔は険路であった事が窺える。

そしてそろそろ沢沿いの径を抜けようかというところに、その馬頭観音は佇んでいる。
江戸時代中期の安永8年( 1779年)の銘があり、側面には南麓の芦ヶ久保 赤谷の人の名が彫られている。
何らかの理由によりこの付近で命を落とした愛馬への供養の為に祀ったもののようだ。

観音様の慈愛に満ちた優しい柔らかな表情と、まるでにっこりと微笑んでいるかのような馬の顔が実に印象的で、見る者 誰もがほのぼのとした温かい気持ちになることだろう。
像容は素朴だが浮彫は非常に丁寧に施されており、したがって顕著な風化は見られず到底 山中で240年の星霜を経たものとは思われない。
多くの野仏で賑わう奥武蔵の山中に於いて、これほどまでに馬方の愛馬への思いと石工の真心が溢れる馬頭観音を、自分は他に知らない。

大野峠で見かけた夫婦や山ガールたちもそうだが、人気の「丸山」からの下山で使われる道の一つなので わりと通行者もあり、新しい小銭が何枚も供えられている。

この麗しい馬頭観音から立ち去るのが名残惜しく、何度か振り返りながら先に進むと大きな岩があって、その形が何やら馬の姿のように見えてきたのは不思議だった。



5、芦ヶ久保の猫と犬

正丸からここまで山歩きを共にした相棒の木杖に別れを告げ、早くも薄闇が漂い始めた雑木林の間を縫って下る。
不意に樹林帯を抜け、赤谷の集落と芦ヶ久保の谷の景色が眼下に豁然と開けるさまは、晩秋の小さな山旅を締め括るにふさわしいものだ。

茜雲たなびく秋空の彼方に浮かぶ遠い山影を眺め、谷へと下る山肌を渋く染めた紅葉に眼を遣りながら、ゆっくりと集落へと下る。

16時30分。車とバイクが行き交う国道沿いを 路傍の地蔵や馬頭観音を確かめながら歩いていくと、一軒の民家の玄関が開いてお爺さんが出てきた。
そしてそのすぐ後ろから白黒斑の猫がついてきたが、自分を不審者と判断したのかサッと身を伏せて警戒の体勢をとり、油断なくこちらの挙動を窺っている。
体型は小肥りで貫禄があり、 なかなかしっかり者の猫のようだ。
お爺さんを頼むぞ!と心の中で声を掛けたが、今朝から出会った猫はこれで5匹目となって何ともうれしい。

さらにこの先で、散歩中の秋田犬に出会った。飼い主は近所の方と立ち話の最中で、まだ若いと思われるその犬は通りすがりの自分に気づいて身体をこちらに向けた。
綺麗な毛並みとしっかりとした体構からは
、飼い主にいかに愛されているかが伝わってくる。
人間を疑う事を知らない無垢で円らな瞳に純粋な好奇心を浮かべ、ピンと立てた尻尾を振るさまは何とも愛らしい。

暮れなずむ晩秋の寂寥に滲んでいた私の心は灯火に照らされたかのように ふんわりと暖かくなり、足取りも軽く駅への道を辿る。
17時半。落ち葉が風に吹き寄せられてカラカラと音を立て、ふと見上げた夜空には一番星、二番星が瞬き始めた。


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「丹沢を歩く会」コミュニティ  
副管理人 S∞MЯK  
モリカワ ショウゴ  
(現 事務局長)  

ハンドルネーム  
YAMAP→ ☆S∞MЯK★丹沢Λ  
ヤマレコ→ smrktoraerigon  

(ヤマレコには記録は残していません。  
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。) 

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