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2018年11月21日16:46

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10-28 大菩薩連嶺北端 錦秋の黒川鶏冠山

2018年10月28日(日)
大菩薩連嶺
黒川鶏冠山
(ピストン)

柳沢峠→六本木峠→横手峠→黒川山→
鶏冠山・鶏冠神社奥宮

YAMAP記録 写真、軌跡など↓
大菩薩連嶺北端 錦秋の黒川鶏冠山
https://yamap.co.jp/activity/2612067



0、黒川鶏冠山と黒川金山

前回の大菩薩峠・石丸峠に続き、今回は連嶺最北端の黒川鶏冠山を訪ねた。


戦国時代 武田信玄の頃に最も栄えたといわれる「黒川金山」をその峡底に抱く大菩薩連嶺 北面の鎮「黒川鶏冠山」。

武田氏の強大な軍事力と豊かな財政を支えた甲州金48万両の大半は「金山衆」によってこの金山で採掘・精錬され、黒川谷からは「黒川千軒」と呼ばれる鉱山町の繁栄ぶりを示す遺構や遺物が多数 出土している。

発掘調査や文献等によれば黒川千軒は概ね1530年頃から形成され、本格的な金の産出は武田信虎の頃に始まって信玄の時代にかけて最盛期を迎えるも、勝頼の代になると鉱脈が枯渇し始めて急速に衰退したと推定されている。
黒川金山の鉱脈は、まさに武田氏の盛衰とその運命を共にしたと言えるだろう。
尤も、1582年に武田氏が滅亡した後も一部の金山衆はこの地に残って採掘を続け、江戸時代初期の慶長年間にも徳川家康の指揮下で金山開発が行われていた記録がある。
しかし黒川千軒が栄えたのは歴史上100年に満たない僅かな期間であり、今はただ崩れかけた坑道跡や石積みが当時の面影を伝えるのみだという。

さて、黒川鶏冠山は現在は「けいかん」の読みが一般的ですが、元は北麓の丹波川方面から見上げた時に峰々の形が鶏の「とさか」に見える事から「とさか山」だった。
また、昔この辺り一帯は広く黒川と呼ばれ、現在 三角点のある山は「黒川山」、鞍部を経た北隣りの岩峰が「鶏冠山」で、現在はこれを合わせて「黒川鶏冠山」としている。


今回は歴史探訪と大菩薩連嶺研究の一環で、北端のこの山を訪ねた。
もちろん、最大のお楽しみは紅葉だ。
どなたかのブログで「丸川峠の丸川荘のスタッフが『黒川鶏冠山の紅葉が素晴らしい。時期は10月末。』とおっしゃっていた」という記述を目にし、時期もちょうど良いので出かけてみた。



1、塩山駅から柳沢峠へ

駅に着いたのは始発バスの30分以上前。
ターミナルに出ると、紅葉シーズンなのに西沢渓谷行きには10人、大菩薩登山口行きには5人ほどしか並んでいない。
妙だなと思ったのも束の間、15分前になると次の電車で来たハイカーたちが駅前に溢れ出し、西沢渓谷行きは忽ち長蛇の列となって優に100人を超えようかという大行列。
一方、大菩薩峠登山口・柳沢峠行きは30人ほどだろうか。

やはり山が賑わう季節はバスダイヤに関係なくとにかくできるだけ早い電車で来るべきという事だろう。
山梨交通の社員が車で乗り付けて行列の人数を数え、電話で臨時バスの手配を始めた。

8時30分。 落合行きのバスに乗りこんで一人席に座るとすぐに眠ってしまい、目を覚ましたのは裂石の大菩薩峠登山口。
ここで8割方のハイカーを下ろしてすっかり軽くなったバスは、北へ北へと羊腸する国道411号線(通称 大菩薩ライン)を縫ってぐんぐんと高度を上げていく。

車窓から眺める山肌の紅葉は朝陽を浴びて光り輝き、まさに豪華絢爛の一言。誰もが窓外の景色に釘付けとなる。

9時30分。今日の山歩きの起点となる柳沢峠に到着。降りたハイカーは7人で、峠にはバイクツーリングの方々が行き交っていた。



2、錦秋の山路を辿り六本木峠へ

柳沢峠は標高1472mで旧 青梅街道では最も標高が高い位置にある。
甲州裏街道たる旧 青梅街道の大菩薩峠越えは大変厳しいもので、その労苦を軽減する為に明治11年に開削されたのがこの柳沢峠だ。

大菩薩峠より標高が約400m低いとはいえ、開通当初は目も眩むような険路だったという。
現在の国道は立派で快適そのもの、まるで山間のハイウェイですが、昔の人馬による峠越えを想像すると気の遠くなるような思いがする。

峠には馬頭観音(文化2年 1805年)と清月観音(昭和26年)の石造物が置かれているが、特に素朴な像容の馬頭観音からは、江戸時代後期に深い山峡の峠路を愛馬と共に辿った古人の姿がしみじみと偲ばれる。

9時40分、登山道に入る。
すぐに標高1500mを超えて、豊かな自然林に包まれた径路となった。
これが丹沢や奥多摩、奥武蔵であればまずは杉・檜の人工林を登って一汗かかされるから、今回はずいぶんと楽をしている事になる。

山肌を見回して木々の梢を見上げると、澄みきった青空を背景に全山紅葉黄葉に染まり、その贅沢な錦繍絵巻に見とれてしまって足がなかなか前に進まない。
まさに、絵に描いたような錦秋の山路。
おそらく峠の駐車場から散策に来たのであろう単独男性5人ほどと擦れ違ったが、皆さんカメラを手に紅葉の美しさにうっとりと見とれていた。

水平径路で尾根を幾つか回り込むと国道のバイク音は次第に遠ざかり、苔生す岩を随所に配した静かな小径が深山の趣きを醸し出す。
ふと立ち止まると、何かが落ち葉の上にパラパラと降る音が聴こえる。
何だろう、とよく見ると それはプロペラの付いた種子だった。
木々は葉を染め落として冬籠もりの準備をしながら、もう春に向けて種を蒔いているのだ。

10時50分。
南の大菩薩嶺への道と東の黒川鶏冠山への道を分ける「六本木峠」に着く。
近くには「一本木」「二本木」「三本木」の地名もありますので、明治か大正の頃に水源林管理の関係者によって名付けられたものだろう。

きらきらと降り注ぐ陽射しの中で、笹原を渡るそよ風と小鳥の囀りがよりいっそう山深さを演出する。
暫く佇んでいましたが誰も来ない。
明るく静かな、好ましい雰囲気の峠だった。


3、横手峠の錦繍と黒川山の大展望

さて、大菩薩嶺への道を分け、「横手山峠・鶏冠山」の標識に従って北東へ、いよいよ黒川山への径路に入る。
ここからは主に昭和40年代に植林されたカラマツやモミ、そしてスギの人工林も現れてやや薄暗い山道となるが、ところどころに大岩やミズナラの大木を配して静けさを深めていく。
かつて松の密林に覆われていたという「松尾根」の山腹に沿ってほぼ水平に付けられた径路は歩きやすく、漸く行程が捗り始めた。
途中で樹間に大菩薩嶺の金字形が見える場所があり、胸が高鳴る。

不意に、笹から笹へと小さな野鳥が飛んで前方を横切った。身体の一部が鮮やかな水色だったが、なんという名前の鳥だろうか。

北麓の落合と南の泉水谷を結ぶ舗装林道を横切って再び山道に入ると、ここから横手峠までの間、紅葉の美しさが最高潮を迎える。
青く深く澄みきった秋空の下、自然が紡ぎだした錦繍に麗らかな陽光が演出を添えて…この至高の芸術を表現するのに、もはや贅言は不要だろう。
思わず嘆声と共に「最高だよ」という言葉が何度か口を衝いて出た。
俳句を詠むも良し、絵を描くも良し、蓙を敷いて宴会するのも良いだろう。
しかし自分はただ見上げてその美しさに酔いしれるだけだ。

11時40分。黒川金山跡への分岐を見送ると「横手峠」に至る。
北麓の落合と南の泉水谷を結ぶ峠で、落合への道が「榛ノ木坂」と呼ばれていた事から「榛ノ木峠」の別称もある。
峠にはミズナラらしい古木が聳えていた。

ここから黒川山までは南の樹間に大菩薩嶺を望みながらひと登り。
12時05分。山頂標識に「見晴台」の文字を見て西に平らかな稜線を辿り、行く手にぽっかりと空間が開けて岩頭に這い上がると、眼前に轄然と展開したのは多摩川水源と奥秩父の山々の広闊雄大なパノラマ。
遥か彼方の稜線から派出した無数の尾根と谷が織り成す山襞の濃淡はまろやかな陰影を描いて秋色に染まり、遠くの山波から脚下の青梅街道まで景観を遮るものの無い、胸のすくような大展望だ。

この素晴らしい展望台を独り占めしておにぎりを頬張っていると、山頂の方向から「ヤッホー!」と子どもの声が聴こえた。
分岐に戻る途中、小学校低学年らしいこの男の子を連れた祖父母に出会い「さっき元気なヤッホーを言ってましたね。」と御挨拶すると皆さん笑顔になった。
その後、3人は見晴台からの景色に感激してわぁっと歓声を上げた事だろう。
そして岩の上に立って展望に胸躍らせる男の子の姿を、老夫婦は慈愛に満ちた眼差しで温かく見守った事だろう。
少年よ、いつまでも今日の素晴らしい山歩きを忘れずに、強くて優しい山男になるんだぞ!

この微笑ましい愛すべき一行は、この日の山で最も印象深い人達となった。



4、金山の守護神 鶏冠神社奥宮

さて、「鶏冠神社方面」の標識に従って鞍部へと下りていくと前方には木々に覆われた岩峰が屹立している。
これが「鶏冠山」で、岩を御神体として鶏冠権現を祀った鶏冠神社奥宮が鎮座しているという。

江戸時代後期の地誌【甲斐国志】(1814年)には、「黒川ニ在ル一大巖山ナリ 高數千丈白雲常ニ覆ヘリ 本州鬼門ノ鎭ニシテ靈山ナリ 此邊 金坑多シ」と記されている。
また、【甲斐叢記】には「黒川山の接きなり 或は天骸山ともいふ 府城の艮位にて鬼門の鎭なりといへり 實に神さびたる山にて高く蒼天に聳へ白雲常に覆へり 其巓に神祠あり 黒川山なる金坑の祀りし神なりとぞ」とある。

12時50分。
急峻な岩場を這い登って最初の岩峰を越え、次なる岩峰を螺旋状に登ると「桶岩」の岩頭に出て、この上に社殿があった。
この神社には武田信玄が黄金の金鶏を製して納め、金山の守護神として崇めたという。
また、かつて社殿に納められていたという天正5年(1577年)の銘が刻まれた二枚の黄金鏡は、武田勝頼が金山の再興を願って奉納したという説と、坑道の大規模な浸水に悩まされた金山衆が治水を祈願して奉納したとする説がある。
社は東麓の黒川谷を俯瞰する位置に鎮座しており、金山を守護する役目の神社であった事がわかる。

南には堂々たる金字形を盛り上げた大菩薩嶺の雄姿が聳え、逆光で黒みを帯びた褐色の山肌は丹波川方面での古称「大黒茂山」の名に相応しい貫禄を湛えている。
東に目を移せば重たげな灰白色の雲がかかる奥多摩の山波を望む。
桶岩の突端から見下ろすと垂直の岩壁で、まさにここが神坐す岩峰である事を実感した。

生憎、狭い山頂には中年男女2人組の先客がいて神社の前で山メシを楽しんでいたので、参拝する事も独り静かに往時に思いを馳せる事も叶わなかったが、金山跡の探索も兼ねてそれはまた別の機会としよう。


5、暮れゆく柳沢峠

再訪を誓って山頂を辞し、再び紅葉を愛でながら往路を辿って柳沢峠に戻る。
途中の案内板に従って寄り道するとここにも奥秩父の山々を望む展望地があった。傍らには東京都水道局が立てた案内板があり、それによると富士川源流、多摩川源流、荒川源流の山並みが見えているとの事。黒川山の見晴台からの展望には及ばないが、カラマツ林の黄葉を前景に午後の斜陽を浴びた山波が印象的だった。

14時40分。柳沢峠に帰着。最終バスまではまだ時間がある。
落合からのバスを待つのは自分と30代単独男性、そして半袖短パン姿の20代男性の僅かに3人。
今日も大菩薩嶺はハイカーで大盛況だったはずだが、北へ下って柳沢峠に下山する方は少ないのだろうか。

15時を過ぎ、カラマツ林を金色に染め上げていた斜陽は次第に山の端に暮れて峠は翳り、俄に寒々しくなってきた。
ツーリングの方々も次々とバイクに跨がって去り、峠の食事処も閉店の準備に入ったようだ。



6、塩山から帰路に就く

15時30分。落合からのバスに乗ったのは結局 我々3人だけだった。
大菩薩峠登山口で数十人のハイカーを乗せたバスは、塩山の町へとひた走る。

途中、アクシデントがあった。
運転手から「この先で火災が発生している為、迂回します」とのアナウンスがあったので窓外に目を向けると、夕暮れの空を背景に濛々たる黒煙が上がっている。
この黒煙は塩山駅からも見え、暫く消防車のサイレンやヘリの音が聴こえていた。

17時。電車を一本逃してしまい、ホームに残ったハイカーは自分独りとなった。
空はすっかり暮れて暗くなり、夜気が身に沁みてくる。
反対側のホームでは長野の小淵沢行きの電車が客を待っている。

なんとなく人恋しさが募る頃、東京方面行きの鈍行がやってきて、ホッとした。
車内の明るさと暖かさが嬉しい季節になったという事だろうか。

前の座席では、70代らしいお婆さん2人が、どちらからともなく話し始めた。
すぐに話に花が咲き、ただ同じ車両に乗り合わせて隣り同士になったというだけの縁のお二人が、まるで旧知の仲ででもあるかのようにお互いの人生を語り合っている。

窓の外には黒々とした山影に抱かれた山峡の町の灯りが点々と、短い光跡を曳いて流れ星のように去っていく。

乗客が少ないので今日はザックを傍らに置いた。山での苦楽を共にしたザックは、独り歩きの自分にとってまさに相棒だ。
さて、駅で飲んだカップ酒の酔いが少し回ってきたらしい。では、ザックと共に今日の山旅を回想しよう。

(完)

mixi  
「丹沢を歩く会」コミュニティ  
副管理人 S∞MЯK  
モリカワ ショウゴ  
(現 事務局長)  

ハンドルネーム  
YAMAP→ ☆S∞MЯK★丹沢Λ  
ヤマレコ→ smrktoraerigon  

(ヤマレコには記録は残していません。  
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。) 


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